水の章・4−50


50.

 翌朝、聖殿に到着した水の守護聖は、自室より先に闇の執務室に向かった。

 怪訝そうな視線を向ける黒衣の守護聖に、ひれ伏さんばかりの勢いで謝罪する。

「申し訳ありません。ルヴァ様にお言葉をお伝えするのを、忘れてしまいました」

「言葉……?」

何事かと訝る様子を見て、リュミエールは説明した。

「昨夜、ルヴァ様によろしく伝えてくれと言づかりましたのに、すっかり失念したまま帰ってきてしまいました。本当に、申し訳ありませんでした」

 そこまで聞いてようやく思い出したのか、闇の守護聖は考え込むように顰めていた眉を解いた。

「気にするな、大した事ではない。が……」

切れの長い暗色の眼が、測るように相手に向けられる。

「お前が物忘れをするとは珍しい。何かあったのか」

安堵したのも束の間、予期していなかった問いにリュミエールは動揺した。

 伝言を忘れたのは、もちろん地と夢の守護聖たちが、思いがけない告白を始めたからだったが、それをどう言い表せばよいのだろう。そもそも、あの場に居合わせてよかったのかどうかもわからないのに、勝手に人に教えていいものだろうか。

 迷っているうちに、水の守護聖は頬が火照っていくのを感じた。悪い事も恥ずべき事もないはずなのに、なぜかいたたまれない気持ちになって、考えがまとまらない。何とかして、一旦退出できないものだろうか。今すぐ夢の執務室に行き、オリヴィエに相談できれば──

「どうした」

重ねて問う声に驚いたリュミエールは、思わず考えの一端を口にしてしまった。

「オリヴィエに……」

はっとして言葉を止めた青年に、クラヴィスがゆっくりと問う。

「あの者が、どうかしたのか」

何もなかったと言い張る事もできず、かといって、全てを話す訳にもいかない。

 水の守護聖はしばらく逡巡した後、差し支えの無さそうな事だけを選んで告げる事にした。

「はい、医療院の前であの人と会ったので、一緒に面会に行ったのです。ルヴァ様はこの前よりずっとお元気そうなご様子で、治療器具などもつけられず、上体を起こしてこちらに話しかけてくださいました」

そこでもう一度言葉を切ると、慎重に考えながら続ける。

「しかし途中から、あの、何か、オリヴィエと二人で話したい事がおありのように見えたので、私は一人で先に帰りました。私邸に着いて初めて、お言葉を伝え忘れたのに気づいたのですが、時間を考えると戻るのも憚られ──申し訳ありませんでした」

重ねて謝るリュミエールの前で、切れ長の眼が、記憶をたどるように虚ろになっていく。あの二人について、何か思い当たる事でもあるのだろうか。

 だが間もなく、クラヴィスは深い溜息とともに、頭を振った。

「……詮無き事だ」

自身に言い聞かせるかのような呟きが、暗い部屋を煙のように漂い、消えていった。




 その午後、守護聖たちのもとに臨時の集いへの招集が掛かった。ただし今回はいつもの聖殿ではなく、特別に宮殿で開かれるという。

 闇の守護聖と共に聖地に向かったリュミエールは、会場である星の間に地の守護聖がいるのを見て驚いた。安楽椅子に掛けているとはいえ、いくら何でもまだ負担が大きすぎるのではないだろうか。

 一足先に入室していた同僚たちも同じ思いらしく、ルヴァを囲むように集まっている。

「病室にいらっしゃらないで、大丈夫なんですか」

大きな眼を更に丸くして問いかけているのは、マルセルだった。

「おかげさまで、だいぶ良くなりましたからね。こうして座っていれば、集いの時間くらいは何とかなりそうです」

その返事を聞いて、リュミエールは今回の集いが、地の守護聖のために場所を変えたのだと気づいた。いくら元気そうに見えるとはいえ、さすがにまだ、次元回廊に耐えられるほど回復してはいないはずだ。それでもルヴァを出席させるために、恐らく女王補佐官が、医療院と同一宇宙にあるこの宮殿で開催するよう決めたのだろう。

「んな事言って、強がってんじゃねーだろうな」

鋼の守護聖が、すかさず口を挟んでくる。

「いいえ、強がりはあなたの担当ですからね」

ぶっきらぼうな心配の言葉に、嬉しそうに微笑みながらも、地の守護聖は切り返した。

「何だと」

「もう、ゼフェルったら!」

同僚を諌めるマルセルの傍らから、さらに風の守護聖が割り込んでくる。

「いい加減にしろよ。お前がそんなに怒りっぽいから、いつもルヴァ様が苦労されているんじゃないか」

「てめーにだけは、言われたくないぜ!」

聞きなれた言葉の応酬と、それに続く予想通りの展開が、ずいぶん久しぶりのように感じられる。

 やはり、守護聖の誰かが欠けていると、このような雰囲気にはならないのだろう。それを思えば、騒々しいやり取りも、温かく心和む光景として受け取れるような気がする。だが一方で、リュミエールは何かが足らないような違和感を覚えていた。

 答えを求めて周囲を見回そうとした時、背後から小さく呼びかける声が聞こえた。

「リュミエール」

振り返った水の守護聖は、部屋の入口近くからオリヴィエがこちらを見つめているのに気づいた。

 まだディアが来ていないのを確かめると、リュミエールは隣に立つクラヴィスに軽く会釈し、それから同僚の方へと移動した。

「あのさ……ありがとう。昨夜は色々と気を使ってくれて」

珍しく口ごもりながら発せられた言葉からは、真剣さと僅かな気後れと、そして隠しきれない喜びが伝わってきた。

「では、あれで良かったのですね。実は、どうしたらいいかよくわからないまま、帰ってしまったのですが」

「良かったかって……」

オリヴィエは瞬間ぽかんと口を開き、それから温かい苦笑とでもいうような表情を浮かべた。

「まったく、あんたらしいね。あれ以上無いくらいの事をしてくれておいてさ」

「それを聞いて安心しました。ルヴァ様のご様子も良さそうですね」

「ああ。ここまで出てこれるか、ちょっと心配だったんだけど、どうやら大丈夫そうだね」

同僚の言葉に、水の守護聖は驚いて尋ねた。

「この集いが開かれるのを、知っていたのですか」

「昨夜、ルヴァがちらっと漏らしたんだ。たぶん、ディアとジュリアスが面会に来た時に打ち合わせたんだろうね。といっても、開催理由までは教えてくれなかったけど──どうやら、相当にシビアな議題みたいだね、あのジュリアスの様子からして」

「ジュリアス様の、ご様子?」

途中から声を低めた同僚につられるように、リュミエールはその視線の先に眼を向けた。

 ルヴァの周囲でまだ言い合っている年少者たちの後に、光の守護聖が立っていた。相変わらず荘厳なまでに高貴な姿だったが、確かに以前より顔色が悪く、精神力だけで常態を保っているのが、その表情からも読み取れるようだった。先刻、何かが足らないと思ったのが、この人の温かく力強い叱責だった事に、水の守護聖はようやく気づいた。

「オスカーも気にしてるみたいだね。あいつの顔、見てられないよ」

続けての指摘を受けて、リュミエールは炎の守護聖に視線を移した。ジュリアスから数歩離れた位置に微動だにせず立つ赤毛の青年は、ぞっとするほど険しく悲痛な眼差しで、その横顔を見つめていた。

 守護聖全員が再び揃ったからといって、以前の平穏な状態が戻ってきたわけではないと、水の守護聖は改めて思い知らされていた。むしろ、時と共に何かが着実に進んでいるのを、自分は様々な兆候から感じ取ってきたではないか。女王試験開始以来、幾度となく問うては拒まれてきた──今は明かせないと、いずれわかる事だと言われ続けてきた、あの恐ろしい流れが、たゆまず続いている事を。

(もしかしたら……)

この集いは、ずっと隠されてきたその“何か”を明かすためなのではないだろうか。そうでなければ、会場を変えてまでルヴァを出席させる理由がわからない。ついに、時が来たのではないだろうか。

 緊張と不安にリュミエールが身震いした時、女王補佐官が星の間に姿を現した。


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