水の章・4−51


51.

 いつものように整列した守護聖たちは、前に立つ女性の姿に息を呑んだ。

 ほっそりした全身からは霞のように淡い輝きが立ち上り、優しげな面立ちには近づきがたい荘厳な表情が現れている。それは、ディアでありながら別人であった。

 集いの始まりを告げる声の響きに、一同は何が起きたのかを、驚きと共に悟った。あるいは存在したかもしれない過去、可能性の一つだった現在──これまで補佐官の職務にのみ活かされてきたディア自身のサクリアが、女王のそれとして発動しているのだ。

 リュミエールは、背に震えが走るのを覚えた。このような事は、少なくとも平常ではあり得ないはずだ。例えば、女王の身に異常でもない限り──

 他の者たちも同じ考えらしく、室内は水を打ったように静まり返っていたが、やがて一人が重々しい問いを発した。

「陛下に何があった」

ジュリアスの言葉に、補佐官の表情は僅かに揺らぎ、隠れていた悲しみと不安を覗かせた。

「陛下は……いつもどおり宇宙を平穏に保つため、力を尽くされています。ただ──」

そこでディアは、躊躇うように口を閉ざした。

「ただ、何なのですか」

地の守護聖が、力づけるように促す。

 伏せぎみだった視線を上げると、女王補佐官は意を決したように続けた。

「必要とされる力が日ごとに大きくなり、昨夜からはついに、意識の全てを宇宙に向けられるようになってしまいました。もはや、話す事も動く事もままなりません。私もサクリアを呼び覚ましてお助けしていますが、恐らく次期女王が決まるまで、この状態が続くでしょう」

 守護聖たちは、一斉にどよめいた。

「そんな……女王交代って、そこまで陛下のご負担になるものなんですか」

泣きそうな声をあげるマルセルの傍らから、ランディも口を出す。

「大丈夫なんですか。いくら陛下でも、そんな事を何日も続けられたら、お体が……」

風の守護聖の声が、途中で止まった。補佐官の面に浮んだ沈痛な表情が、どのような言葉より重い答えであった。

 突然、ゼフェルが扉に向かって走り出した。

「こら、どこに行くんだ」

素早く声をかけた炎の守護聖に、少年は怒鳴るように答えた。

「決まってるだろ。リードしている方の大陸にありったけの力を送って、今すぐ試験を終わらせてやる!」

「何だと」

オスカーが苛立ったように言う。

「バカな、そんな事をしたら試験にならないだろう」

「じゃ、このまま指をくわえて待てって言うのかよ!」

炎の守護聖が答える前に、他の年少者たちも口々に言い出した。

「行かせて下さい。今度ばかりは俺も、ゼフェルの言うとおりだと思います」

「オスカー様、僕たちは女王陛下をお守りしなければならないんでしょう」

「お前たち……」

困惑しているオスカーの背後から、呼びかけが聞こえてきた。

「戻りなさい。あなたたちにはまだ、伝える事があります」

扉の前にいたゼフェルは、はっとしたように補佐官を見た。

 その響きには再び、宇宙を統べる存在の荘厳さが宿っていたのだ。




 少年が元の位置についたのを見届けると、ディアは重々しい、しかし彼女自身の柔らかな響きも残る声で話し出した。

「“恐らく試験は、あと数日で決着がつくだろう。それまでは何としてもこの宇宙を、そしてこの身をもたせてみせる”──これが、陛下が最後に話されたお言葉でした。試験の結果に影響するような干渉は、無用だという事です」

 守護聖たちの間から、誰ともなく安堵の溜息が聞こえてきた。予断を許さない状況に変わりはないが、とりあえず今すぐに女王の身が危ないというわけではないらしい。

「それから、考え違いをしないで下さい。陛下のご負担がこのように重くなったのは、女王交代のためではありません」

補佐官は言葉を切り、それから、覚悟を決めたように続けた。

「これまで黙っていましたが──この宇宙の寿命は、間もなく尽きようとしています」

 水の守護聖には、その言葉が理解できなかった。理解したくなかった。宇宙の終わり。星々の終わりではなく、宇宙そのものの最期。そのような事があると、知識としてわかっていても、まさか自分の生きている間に起きるとは思ってもみなかった。この宇宙にある全てが、消滅してしまうというのだろうか。今生きている自分たちも、これまで生み出されてきた無数の遺産も、数限りない思いも。

 眼の前が無辺の空白になったような感覚の中で、無意識に闇の守護聖を見上げる。厳しく引き締められた白い横顔に、しかし驚きの表情はなく、むしろ覚悟を決めていたかのような諦観が現れていた。

(クラヴィス様……?)

動揺の中にあって、リュミエールはふと違和感を覚えた。

(ご存知……だったのですか)

気づけば他の年長者たちも、同じような表情で押し黙っている。それでは、この事だったのだ。補佐官を含め、彼らが互いに明かさぬまま同じ考えを抱き、自分たちから隠し続けていたのは。

 呆然とした心のまま、補佐官が話し続けるのを聞く。

「だからといって、いたずらに恐れないで下さい。歴代にもほとんど例を見ないほど大きな力を費やして、陛下は終焉の訪れを遅らせ、今ある星や命を残さず救ってから交代できるよう、手立てを講じられているのです。この手立てについては、今は詳しく言えませんが、試験の結果が出次第、発動する事になっているとだけ伝えておきます」

 守護聖たちの間から、再び安堵の息が流れた。具体的にはわからないが、とにかく全ての星と生命を救う手段があるというのだ。

 水の守護聖もまた胸をなでおろしながら、ただ一人──ディアが手伝っているとしても、ただ二人──で全宇宙を救おうとしている女王を思いやった。守護聖として、人間として、助けられるものなら助けたい。だが、すでに事態は自分たちには手の届かない次元にあるのだ。

 一同の様子を見回すと、ディアは再び口を開いた。

「しかし、陛下のお力をもってしても、もはや終焉による綻びを全て止める事はできなくなってきました。さらに女王のサクリアが十分に行き渡らなくなった影響も、宇宙の至る所に現れています。星々に異常が観測されているのは、気づいた人もいるでしょう。それはついに聖地にも、そしてあなたたち守護聖の中にも、現れてしまったのです」

「私たちの……中」

掠れた声で呟いたのは、オリヴィエだった。艶やかな面を翳らせて、手袋に包まれた己の十指を見下ろしている。

「ええ、あなたの思っているとおりです」

頷いた補佐官の眼差しに、限りない悲しみと慈しみが見て取れた。

「女王のサクリアは金と白──宇宙に活力を与え前進させる力と、守護聖たちのサクリアを和らげ調和させる力です。それらが不足したために、宇宙全体が覇気と安定を欠き、聖地の守りまでも弱くなってしまいました。あなたたちにはその影響が、サクリアに心を囚われるような形で現れてしまったようです」

 一同たちは眼を見開き、それから互いに視線を向けあった。自らの行為として、あるいは周囲に、多少なりとも思い当たる事の無い者はなかった。

「ディア、私が調べていたのは、まさにその事だったんです」

地の守護聖が、穏やかに話し出した。

「星々が生気を失っている件については、宇宙の寿命によるものだとすぐ突き止められたんですが、自分たちの様子がおかしくなっている理由が、なかなかわからなかったんですよ。それで、かなり古い資料にあたったところ、かつて宇宙が大きな危機に見舞われた時、やはり守護聖がそれぞれの力の、最も表面的な部分に囚われてしまったという記録が見つかりましてね」

灰色の双眸が、やつれの残る面と不釣合いなほど輝いている。この人はやはり、考えたり調べたりという話になると、元気が湧いてくるのだろう。

「ただ、危機とその現象の関連がわからなくて──単に心身が不安定になったのとは違うような気もしてきましてね──育成依頼が小刻みになってきた時に、ようやく思い当たったんです。あれは、サクリアを放出段階で微調整していたんですね、白の力で調節できなくなってしまったから」

 それを聞いて、リュミエールはずっと抱いてきた疑問が氷解するのを感じた。

 聖地に来てからの教育で、白のサクリアについては学んでいたが、平常では実感する機会もなく、その知識も頭の片隅に追いやられていた。だが、これが弱まった事により、九つの力がそれぞれの守護聖たちの裡で暴走し、様々な変調を来たしてしまったのだ。たとえばサクリアの表面的な部分に固執し、否定される事に過敏になり、あるいは相対するものを認められなくなるというように。

(ランディやオリヴィエ、それにルヴァ様が心身を傷めたのも……マルセルやゼフェルやオスカーが、あれほど刺々しくなっていたのも……)

リュミエールの記憶に、同僚たちが苦しんでいた様子が、心痛と共に蘇ってくる。

「でもさ、ルヴァ」

突然言い出したのは、夢の守護聖だった。

「私の知る限りでは、ジュリアスにクラヴィス、それにリュミエールは、何も問題行動を起こしてないよ。これまでの事が、白の力の足らないせいだったとしたら、どうして三人だけ大丈夫だったわけ」

「それは……うーん、修養が違うんでしょうかねー」

地の守護聖は、困ったような笑顔で答えた。場違いなほど暢気なその口調に、重苦しい空気がいくらか和んだようだった。

 ディアも僅かに表情を緩めたが、すぐに真顔に戻って口を開いた。

「それについては思い当たる事もありますが、いずれ確証が取れてからお話します。それから──わかっているでしょうけれど、陛下の事、それに宇宙の状態については、一切他言しないで下さい。もちろん、女王候補たちにも」

「なるほど」

闇の守護聖が、無表情に呟いた。

「試験を新宇宙で行うのは……この宇宙から遠ざけ、終焉が近いのを気取らせぬため、か」

 ディアの眼に緊張の色が走ったのに、水の守護聖は気づいた。

「それもあるでしょう」

短く答えた補佐官は、穏やかさに威厳の加わった声に戻って告げた。

「ひとまず、今日の集いはここまでとします。皆、自分たちが不安定になりやすいという事を忘れず、慎重な行動をとるようにしてください」

侍従が呼ばれてルヴァの椅子──普通の安楽椅子に見えたが、どうやら可動式になっているらしい──を押し、扉の外に連れて行く。それに続くように、他の守護聖たちも黙々と退出し始めた。

 リュミエールもまた闇の守護聖の後について歩き出そうとしたが、ふと背後で声がしたような気がして、そちらに視線を向けた。

 呼び止められでもしたのだろうか、ちょうど光の守護聖が部屋の奥にいるディアを振り返るところだった。背を向けた姿から表情はうかがえず、言葉も聞き取れなかったが、補佐官の真剣な様子からすると、かなり重要な話のようだ。

「……どうした」

先に行っていると思っていたクラヴィスが、足を止めて向き直り、それから、つられるように部屋の奥を見やる。

 その視線が、たちまち強張っていった。


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