水の章・4−52

52.

 再び振り向いた水の守護聖もまた、息が止まるほど驚いた。ジュリアスが、誰よりも礼儀と序列に厳しいあの首座の守護聖が、話し続けている補佐官を無視するように背を向け、去りかけていたのだ。

「まだ、話は終わっていません──ジュリアス!」

補佐官は動揺した様子で歩み寄ると、相手の白い袖に手をかけた。

 それを振り解き、光の守護聖が怒鳴りつける。

「話す事など、もはやない!」

やはり弱っているのだろうか、かつて年少者を叱っていた時のような大声ではなかったが、その叫びには、鬼気とでも呼ぶべき異様な迫力があった。

 怯んだように黙り込むディアを後に、ジュリアスは硬い表情で再び歩き出した。闇と水の守護聖たちが見つめる前を、二人には眼もくれず通り過ぎ、開いている扉に向かって進んでいく。

 他の守護聖や侍従たちがすでに退出している事に、リュミエールは小さな安堵を覚えた。どのような事情があるにしろ、あまり多くの人の眼に触れさせたい光景ではない。何しろ自分でもまだ、これをどう捉えたらいいのか判断がつかないのだ。同僚たちが予想外の言動に出るのは何度も見てきたが、それらは皆、サクリアの副作用のようなものだった。だが、補佐官への礼を失した態度が、誇りといったいどう結びつくのだろう。

 沈黙の中を進んでいった光の守護聖が、扉の前に着く。その時、背後から突然、補佐官が宣告した。

「では私の権限で、オスカーの謹慎を解きます。あなたの了解は求めません」

決然とした口調とは裏腹に、深い心配と悲しみを覚えているのが、その声から伝わってくる。

 しかし、ジュリアスは振り返りもせず答えた。

「補佐をさせるか否かは、私の権限だ」

そのまま退出していく首座の守護聖を、三人はただ見送るしかできなかった。




 白い姿が通路の奥に消えると、リュミエールはふと補佐官の方に視線を向けた。

 先刻と同じ場所で、撫子色の女性が辛そうに面を伏せ、立ち尽くしているのが見える。と、その細い肩が、にわかに平衡を失ったように傾きだした。

「危ない!」

リュミエールは駆け寄ると、今しも床に倒れようとしていたディアを抱きかかえた。

 補佐官は束の間、意識が遠のいたように眼を閉じていたが、すぐに瞼を開くと、弱々しい声で言った。

「リュミエール……」

「お気を確かになさってください。今、侍従を呼びますから」

しかし補佐官は静かに頭を振り、慎重に身体を起こして元の姿勢に戻った。

「ありがとう。でも、もう大丈夫です。あなたたちは飛空都市に戻ってください」

「しかし……」

不安そうに食い下がるリュミエールに、ディアは穏やかながら固い意志の感じられる微笑を見せた。

「研究院の最新データによると、二つの大陸は闇と水の力を必要としているそうですよ。試験を進めるためにも、早く聖殿に行って下さい」

そう言われては、水の守護聖も引き下がるしかなかった。




 位置も表情も変えず一部始終を見守っていたクラヴィスに事情を話すと、二人は星の間を退出した。

 次元回廊に向かう道すがら、半歩前を行く同行者の、その丈高い姿を見上げては溜息をつく。今朝の集いについて、またその後で起きた事について、この人に尋ねてみたいのに、切り出すきっかけがつかめない。

 何も言えないまま、リュミエールは闇の守護聖に続いて回廊に入り、次元移動を開始した。

(……あ?)

いつものように心身に微かな不快感が訪れ、去っていく。だが水の守護聖には、それが普段より長く大きかったように思われた。気のせいならばいいのだが、時が時だけに、回廊に異常でも生じたのではと危惧してしまう。

 不安を抱えながら飛空都市側の出口に着くと、思いがけず、闇の守護聖が話しかけてきた。

「……気づいたか」

「クラヴィス様も、お感じになったのですか」

水の守護聖は、驚いて聞き返した。

 黒衣の守護聖は頷くと、通ってきたばかりの回廊を振り返った。

「行く時も感じたが、さらに増えている。ここの管理は、ディアには荷が重かろう」

 水の守護聖は、暗い気持ちで事情を察した。先刻の話では、女王は昨夜からその力と意識の全てを宇宙の維持に向け、他事がままならないようになったという。つまり、本来なら女王の行う務めの大部分を、ディアが代行しなければならなくなってしまったのだ。

 次元回廊の管理もその一つだが、これは、異なった宇宙を隔てる障壁に外部から干渉するという、特に高度で力を要する務めだと言われている。混沌層とも呼ばれるこの障壁は、サクリアの他にも、回廊付きの職員の操作する機械に反応して弱まるよう制御されており、補佐官や守護聖以外の者は許可を得て行き来できるようになっている。

「私には、行きはわかりませんでしたが、今は感じられました。きっとお疲れが増すごとに、制御が難しくなるのでしょう。補佐官としての務めだけでも重大ですのに、陛下の代わりまでしなければならないとは……」

先刻腕に抱えた補佐官の、痛々しいほどに細い躯を、リュミエールは思い出していた。

「ディア様のためにも、このような状態が早く終わるといいのですが」

「全ては、試験のなりゆき次第だ」

話しながら二人は回廊室を抜け、係員の待つ通路から戸外に出た。




 午後の日差しが額に降りかかり、活き活きした緑が眼に飛び込んでくる。しかし、リュミエールの心は、かえって憂いに沈んでいった。

 飛空都市の生気がこのように強く感じられるのも、自分が滅び行く宇宙から戻ったばかりだからではないだろうか。可能性と力に満ちたここと比べ、もう一つの宇宙はあまりにも弱り、死に瀕している。寿命を迎え、命尽きようとしている。無数の貴い歴史と文化と心をつむいできた、掛け替えのない──そして今や、ただ一人の補佐官の助けのみを得て、ただ一人の女王によって維持されている宇宙……

「……乗らぬのか」

低い声に驚いて我に返ると、研究院があつらえた馬車が、すぐ前に停まっている。

 既に席についている闇の守護聖に謝りながら、リュミエールも急いで向かいの席に乗り込んだ。




 聖殿に向かう車中で、水の守護聖は何度か躊躇った後、ようやく思い切って話しかけた。

「クラヴィス様は、ご存知だったのですか。私たちの生まれた宇宙が……終わりかけているのを」

しばらくの沈黙の後、闇の守護聖が静かに頷く。

 リュミエールは、溜息を抑えられなかった。ではやはり、そのような恐ろしい事を、この方は胸に秘めてこられたのだ。

 女王が宇宙中の命を救うベく動いていると聞いてさえ、押しつぶされそうな不安を覚えるというのに、それも知らされない頃から、そして元より大きな痛みを二つも──闇を司るがゆえの苦しみと、叶えられなかった想いの辛さを──負う身でありながら、この方は独り耐えてこられたのだ。誰にも明かさず、訴えも嘆きもしないで。

 やつれてなお端正な白面が哀しすぎて、水の守護聖は眼を伏せた。これほど近くにありながら、自分には気づけなかった。試験が始まって間もない頃、パスハとサラの会話に、何かがあると感じていながら。またつい先日、ゼフェルがジュリアスに詰め寄った時、補佐官が答えたのを聞いていながら。気づかず、知らされる事もなく、ただこの方を、孤独の裡に苦しむがままにさせていたのだ。

 情けなさと悲しみが、止め処なく溢れてくる。胸を裂かんばかりの切なさとなって、悲鳴のように言葉を押し出していく。

「なぜ、打ち明けて下さらなかったのです。クラヴィス様が、私などより遥かに強靭でいらっしゃるのはわかっておりますが、それでも、お一人で胸にしまっておくには、あまりに大きく辛い事ではありませんか。痛みもお分けいただけないほど、私は頼りないのでしょうか」

言い終えてから、水の守護聖は愕然とした。何という恨みがましい言葉を口にしてしまったのだろう。

 謝らなければと焦るあまり、声が出てこない。いまだ反応のないクラヴィスの面に、いつ怒りの、あるいは傷ついた表情が現れるかと思うと、リュミエールは恐慌をきたしそうになった。

 気の遠くなりそうな沈黙を終わらせたのは、しかし、闇の守護聖だった。

「……許せ」

水の守護聖は、呆然として相手を見つめた。

 日よけに弱められた陽を受けて、柔らかな陰を帯びた白い面が、こちらに向けられている。切れの長い双眸は哀しげに翳り、色のない薄い唇が、発せられた言葉の形を留めている。

「私……こそ」

掠れた声が、喉からこぼれ出た。

「何という事を……申し訳ありません……」

闇の守護聖が、ゆっくりと頭を振るのが見える。

「しかし……」

なおも謝ろうとした時、馬車が静かに停まり、聖殿に着いた事を告げる御者の声がした。




 先に降車したクラヴィスが、いつものように半歩先に立って歩き出す。

 後について玄関ホールを過ぎ、正面階段を上りながら、水の守護聖は蚊の鳴くような声で呼びかけた。

「あの、クラヴィス様」

足を止めないまま、闇の守護聖が僅かに頭をめぐらせる。

「……まだ、気が済まぬと──」

  だが、その言葉の終わる前に、二人の意識は、階段の先にひきつけられていた。地響きを立てんばかりの荒々しい足取りで、執務室をつなぐ二階の廊下を、炎の守護聖が歩いていったのだ。

 その猛々しい雰囲気にのまれたように、闇と水の守護聖たちは無言で階段を上りきり、廊下を見渡した。既に自室に戻ったのか、オスカーの姿は見当たらなかったが、光の執務室の前には数人の侍従が、疲れた様子で立ち尽くしていた。彼らと炎の守護聖との間に、揉め事でもあったのだろうか。

(そういえば……)

侍従たちがこちらに気づき、一礼して執務室に入っていくのを見ながら、リュミエールは補佐官と光の守護聖の会話を思い出していた。きっと、謹慎が解かれたと知らされた炎の守護聖が、さっそくジュリアスの補佐に向かい、そして拒まれたのだろう。廊下に出されてまで食い下がり、最後には侍従たちと押し問答になったというところだろうか。

「やはり……サクリアに蝕まれているようだな」

低い声で発せられた言葉に、水の守護聖は驚いて聞き返した。

「ジュリアス様の事でしょうか。では、ディア様にあのような態度を取られたのも……」

「そこまで心身が弱り、余裕を失っているという事だ。普段から助けを求めたがらぬ向きはあるが、無謀なまでに補佐を拒み続けるのは、過剰なサクリアが判断を誤らせているためだろう」

クラヴィスは長い息をつくと、独り言のように呟いた。

「誇りというのも、案外、面倒なもののようだ。あれが無理をするのは、昔からだが……」

暗色の眸が、苦しげに顰められる。リュミエールはそこに、今まで光の守護聖に向けられてきたものとは異なる、自責にも似た表情を見たような気がして、思わず呼びかけた。

「どうなさいました、クラヴィス様」

見つめるうちに、水の守護聖は背筋が寒くなるのを感じた。ずっと現れていなかったはずのあの色が、凍りついた遠い眼差しが、闇の守護聖の面に蘇り始めていたのだ。何がきっかけとなったかはわからないが、遥かな過去の痛みが今またこの方の心を襲い、苦しめているのは明らかだった。

「クラヴィス様……」

祈るような気持ちで呼びかけると、しかし眼の前の白面が、僅かな動きを見せた。薄い唇がゆっくりと動き、吐息のように微かな声が流れたのだ。

「……まだ……気が」

一瞬が一日ほどに長く感じながら、続く言葉を待つ。

「済まぬ……なら……竪琴を……」

ようやくそれが階段での会話の続きだと気づき、リュミエールは驚きながら答えた。

「かしこまりました。すぐに準備いたしますから、まずはお部屋にお入りください」

水の守護聖は、相手の背を支えるように腕を回すと、クラヴィスの執務室に向かって歩き出した。

 丈高い躯が痛みに震え、酷く冷たくなっているのが、腕から伝わってくる。相手に無理のないよう慎重に足を運びながら、リュミエールは心中で溜息をついた。しばらく表面に出なかったとはいえ、この傷は少しも癒えていなかったのだ。加えてつい今朝までは、耐え難いほどの大きな秘密を抱え込み、さらに自分のような者に酷い言葉を浴びせられ──

 それでも、思いやっていて下さったのだ。苦しみの中から声を搾り出し、気が済むようにと言葉をかけてくださったのだ。他ならぬ暴言の主である、この自分に。

 涙が出そうになるのを、水の守護聖は懸命に堪えていた。心配と後悔と悲しみと、長く育んできた別の想いが、激しく胸を揺り動かしている。合わさって一つの大きな流れをなし、闇の守護聖へ、ただその人へと真っ直ぐに向かっている。

 それがどういう感情なのか、リュミエールにはもうわかっていた。認めないわけにいかなかった。気づかないふりをするには、否定し抑制するには、あまりにも強くなりすぎていた。たとえ、自分のような者に、その資格はないと思っていても。宇宙が、そして闇の守護聖自身がこれほどの状態なのに、許される事ではないと思っいても。

 それでもリュミエールはこの人を慕っていると、恋慕していると、自覚しないではいられなかった。


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