水の章・4−53

53.

 心地よい夜風の中を、楽の音が流れていく。飛空都市にある私邸の居間で一人、水の守護聖は竪琴を奏でていた。溜息のようにこぼれていく旋律に、いつか心が言葉を乗せ始めているのを、夢のようにぼんやりと感じながら。

(尊い……深い……崇い……寛い……)

窓の外、星のちりばめられた黒い空間に、一つの人影が浮かんでくる。最も多く長く見ていながら、なおも追わずにはいられない白い面差し。何よりも心を震わせ、胸の高鳴りを呼ぶ丈高い姿。

(潔い……強い……)

 同じこの空を、あの方もご覧になっているだろうか。それとも水晶球か、あるいはカードでも眺めていらっしゃるだろうか。よもや、あの眼差しを凍らせる痛みが、また戻ってきたりしていなければいいのだが。

(……懐かしい……床しい……)

その日の午後、集いの後の出来事を思い出しながら、リュミエールは弦に指を走らせ続けた。




 苦しみ出した闇の守護聖を執務室まで送り届けると、水の守護聖は急いで自室から竪琴を持ってきた。そうして、少しでも相手を癒すべく、叶わぬならせめて痛みを紛らすべく一心に音を紡ぐうち、クラヴィスの顔色や表情は、僅かずつ普段の様子を取り戻していったのだった。

 やがて、ゆっくりと身を起こした闇の守護聖が、何かを言おうと口を開いた時、金の髪の女王候補が執務室を訪れた。

 リュミエールは心配しながら見つめていたが、クラヴィスが自ら立ち上がり、執務机へと移動したので、ひとまずは大丈夫だろうと判断して退出した。苦しみの中にあっても意識を引きとめ、言葉を発する事ができたのだから、もしかしたら今回は比較的痛みが弱い──あるいは、当人に耐性がついてきた──のかもしれないと考えたのだ。

 しかし夕方、リュミエールが補佐に向かうと、既に闇の守護聖は帰り支度をしているところだった。残った仕事は翌日に廻すと告げ、早々に聖殿を後にしたところを見ると、やはり少なからず消耗しているのだろう。

 明日には、もっと良くなっているだろうか。早く苦しみを脱し、いつもの調子を取り戻されるといいのだが。そうして、あの眼差しをこちらに向け、言葉をかけて下さったら、どれほど嬉しいだろう……




 心配にいつか願望が混ざり始めているのに気づき、水の守護聖は顔を赤らめた。自分の想いが純粋な敬慕でないと気づいてから、まだ一日も経っていないというのに、幾度このように考えが逸れていった事だろう。眼差しや言葉だけではない。浅ましいと思いながらも、その意識のどこか一片でも我が物になればと望まずにいられないのだ。

 相手に想う人がいると分かっていながら。あのように永く大きな痛みの源ならば、途方もなく強い想いだろうにと、そこまで考えていながら。




 音が乱れ始めたのに気づき、リュミエールは弦から指を外した。窓から漏れ出た音が風に乗り、万が一にでも闇の館に届くような事があってはならない。夜の静寂を愛するあの方を、聞き苦しい音で邪魔するなど、決して許される事ではない。

 水の守護聖は大きく息をつきながら、もう一度夜空を見上げた。まだ数こそ多くはないが、活き活きと輝く若い星たちは、まるで満ち溢れる生命力を誇っているかのようだ。

 ディアの言ったとおり、二人の女王候補たちは今日、それぞれが闇と水の力を依頼してきた。リュミエールが放出を終えた時点では、まだどちらの大陸の民も僅かに中央の島に達していなかったが、先に済ませたクラヴィスの分と合わせると、少女たちの一日分の力はもう使い切っているはずなので、決着がつくのは明日以降になるのだろう。

 アンジェリークもロザリアも、本当によくやっている。いずれも民との絆は強く、望みの把握も正確そのものだ。この調子からすれば、あと二三日もすれば次期女王が決まるだろう。

 水の守護聖はそこまで考えて、はっと眼を見開いた。確か女王は、代替わりまでに宇宙を──宇宙にある全ての命を救ってみせると言っていたはずだ。どのような手段かはわからないが、本当にあと二三日で、そのような事が成し遂げられるのだろうか。いったいどれほど大きな力で、どれほどの事をしようとしているのだろうか。

 女王の計り知れない偉大さを思い、リュミエールは改めて、眼の眩む感覚と絶望とを味わっていた。そう、これほどの存在に寄せられる想いが、半端なものであるはずがない。だからこそあの方はあそこまでの痛みを、波こそあれ消える事のない苦しみを、ずっと胸に抱き続けていらっしゃるのだ。

(大きな苦しみ……他の誰も、入り込む余地のないほどの……)

失意に打ちのめされながら、それでも水の守護聖は星空を眺め、そこにクラヴィスの面影を追い続けていた。辛いだけだとわかっていても、どうしても眼を離せない。想うだけで苦しいのに、想わずにいられない。

(クラヴィス様……)

声に出さず呼んだその名が、心の裡で轟音となって響き渡る。耳を塞いでやり過ごす事もできず、リュミエールは痛みに耐えるように胸を押さえながら、なおも星空を見上げるのだった。


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