水の章・4−54


54.

 翌朝、水の守護聖は王立研究院を訪れ、フェリシアとエリューシオンのデータを閲覧した。

 それによると、両大陸とも昨夜の育成を受けて、中央の島の間際までほぼ互角に居住域を広げているようだ。更なる拡大条件も整いつつあり、最短の場合──女王候補たちが、完全に民の望みと合った育成を行ったなら──明日の夜の育成で、いずれかの民も島に到達し得るという事が、はっきり数値で示されていた。

(試験の終わり……私たちの宇宙の救済と、新陛下の即位……)

運命の時が目前に迫っているのを改めて確認し、リュミエールは身震いを抑えられなかった。




 研究院を出るべく中央ホールを横切っていると、金の髪の女王候補がパスハと話しているのが眼に入った。少し距離があるので、二人ともこちらには気づいていないようだが、声はよく聞こえてくる。

「エリューシオンに向かうというのか。今から」

「はい、お願いします」

 水の守護聖は、思わず足を止めた。まさかアンジェリークは、大切な力を消費して、大陸に行こうとしているのだろうか。先日の土の曜日の訪問で、民の望みも両大陸の発展ぶりも、十分にわかっているはずだ。今が勝敗を決する時だと知っていながら、なぜ全ての力を育成に用いようとしないのだろう。

「状況を、よく考えた上での事なのだろうな」

パスハが重ねて問うてきた。不公平な助言にならないように否定的な言葉こそ避けてはいるが、即座に許可しようとしないところをみると、やはりこの判断に疑問を抱いているのだろう。

「はいっ」

アンジェリークは、迷いなく答えた。

「こういう時だからこそ、望みをもう一度確かめたいんです。心から信じてくれる大切な人たちの、掛け替えのない大地に、最後まで一番いい育成をしてあげられるように」

それを聞いて、リュミエールは眼を見開いた。言葉遣いこそいつものアンジェリークのものだったが、その声には昨日のディアを思わせる深遠な響きが感じられたのだ。

 主任研究員も同じ事を思ったのか、しばらく黙って女王候補を眺めた後、大きく頷いた。

「遊星盤の使用を許可する」

「ありがとうございます!」

嬉しそうに礼を言うと、金の髪の少女は弾むような足取りで奥の部屋へ入っていく。

 それを見送っていたパスハが、振り向きざま、こちらに気づいたように礼をした。

「リュミエール様」

大股に歩み寄ってくると、いつもの沈着な口調で問いかける。

「私にご用でしょうか」

「いいえ、データを閲覧した帰りに通りかかっただけです。アンジェリークが、大陸に行ったようですね」

「はい──」

珍しく話を続けそうな主任の様子に、リュミエールは先刻の声についての意見が聞けるかと淡い期待を抱いたが、出たのは別の話題だった。

「私はこれから聖地に参りますので、もし何かありましたら、研究員に伝言なさってください」

「ああ……そうでしたか」

水の守護聖は、竜族の青年を眺めながら思い出していた。女王候補を別にすれば、補佐官や守護聖以外の者が次元回廊を通る事は滅多にないが、王立研究所の職員だけは例外として、職務のための往来が認められているのだ。

「それでは、気をつけて──」

リュミエールはそこで、はっとして言葉を止めた。通常ならば気をつける事などないはずなのに、昨日の移動時の感覚を思い出して、つい口を滑らせてしまったようだ。

 表情を変えないまま、パスハが答える。

「回廊内が不安定になっているのは、私も承知しております。お心遣い、痛み入ります」

余計な事を言ったかと案じていたリュミエールは、その返事に少しほっとしたが、まだ不安は残っていた。

「しかし、大丈夫なのですか。今の状態では、私たちでさえ多少の不快感を覚えるのに」

「どうぞ、ご心配なく。種族のせいかもしれませんが、他の職員よりは耐性があるようですから」

こちらを気遣ってはいるが、嘘をついてまで安心させようとする人物ではない。もし守護聖以上の不快感があるとしても、彼にとって耐え難いほどではないのだろう。いずれにしろ、これ以上引き止めるのは誰のためにもならない。

「わかりました。でも、くれぐれも気をつけて行ってきてください」

少しでも回廊が安定しているよう心の裡で祈りながら、水の守護聖は王立研究院を後にした。




 リュミエールは聖殿に着くと、今見てきた事を報告するため闇の執務室に向かった。

 扉を叩こうとして、自分の手が微かに震えているのに気づく。

(仕方が……ありませんね)

永い間抱いてきた想いに、ようやく昨日気づいたばかりなのだから、こういう事も起こりえるのだろう。それでも案外と動揺していないのは、散々悩んできた問いにようやく答えが出たからなのだろうか、それとも、最初から叶うはずのない想いだからだろうか。僅かでも望みがあれば、それを失うのが恐くもなろうが、もとより無理と分かっていれば、恐れる事もない。

 一つ息をついてノックすると、いつもながら聞こえにくい返事が漏れてくる。

「……開いている」

水の守護聖の肩が、瞬間、びくりと上下する。いかに動揺していないといっても、完全に平静を保つのは無理というものだ。幾度となく聞いては喜びを覚えてきた声に、これほどの動悸が引き起こされるようになってしまったのだから。

 胸を押さえて気持ちを落ち着け、扉を開くと、執務机の前に先客がいるのが見えた。

「では、よろしくお願いしますわ、クラヴィス様」

青い髪の女王候補はそう言うと踵を返し、こちらに向かって会釈した。

「こんにちは、リュミエール様」

「ロザリア……」

普段どおりに微笑みかけながら、水の守護聖は奇妙な感覚に捉われた。少女の瞳の奥に、見た事もない──これまで気づかなかっただけかもしれないが──甘く切ない色が、一瞬だけ現れていたように思えたのだ。

 すぐに消えてしまったところを見ると、それまで浮かべていた表情の名残なのだろうが、いったい何を思えばあのような瞳になるのだろうか。この部屋で。この部屋の主の前で。

「失礼致しますわ」

退出の挨拶に、リュミエールは改めて少女の面を見つめてみたが、そこにはいつもの上品で毅然とした表情しか現れていなかった。

(見間違い……だったのでしょうか)

ロザリアを見送ったまま、扉を向いて訝しんでいると、背後から低い声がした。

「どうした」

「……あ、いいえ」

これまでにない当惑を覚えながら、水の守護聖は答えた。何もしていないはずなのに、酷く後ろめたい気持ちがする。自分がとても人に見せられない顔をしているように思えてくる。

 いくら室内が暗くとも、闇の守護聖の方を振り向く勇気が出ない。とはいえ、部屋を訪ねてきたばかりで、顔もあわせず出て行くわけにもいかない。

 途方に暮れていると、前方の扉から、軽快なノックが聞こえてきた。



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