水の章・4−8

8.

 闇の守護聖はまだ、歩くのはおろか一人で立っていられるだけの力も回復してはいないようだ。

 黙ってその躯を支え続けながら、リュミエールは周囲を見渡した。集いの前に人払いがされたのか、開いた扉から見える前室も、控えめな照明だけが照らす薄暗い星の間も、しんと静まり返っている。

 星々の映し出された天井を見あげた時、水の守護聖はふと、自分たちが宇宙を漂っているような錯覚に陥りそうになった。他のあらゆるものと遠く隔たって、互いの存在だけを感じている。無辺の空間に包まれて、相手こそが世界の全てだと、他の何ものも意味など成しえないのだと、当然のように認めあっている──

(そんな事……あるはずもないのに)

 夢想の中にありながら、リュミエールは否定せずにいられなかった。闇の守護聖の心を誰が占めているのかは、もう分かっている。退位の知らせに、支えられなければ立っていられないほどの衝撃を受けているのを、こうして目の当たりにしているのだから。

 同情とも失望ともつかない溜息をもらしそうになった時、水の守護聖はクラヴィスが試すように躯を動かし始めたのを感じた。ようやく回復したらしいと気づき、支えの力を少しずつ弱めていくと、相手もそれに応じるように重心を移していく。長い時間をかけて自力で立てるようになると、次いで闇の守護聖は、調子を見るようにゆっくりと歩き出した。




 ふらつきながらも執務室に向かって歩いていく、丈高い後姿。半歩後ろをついていった青銀の髪の青年は、相手が扉までたどり着いたのを見届けると、その場で立ち止まった。できるならば室内までついていきたかったが、あれほど消耗しているのなら一人で休みたいだろうと、あえて自分を抑えたのだ。

 一礼して下がろうとした時、しかし闇の守護聖は、突然振り向いた。

「リュミエール……竪琴を、聞かせてくれ」

まぎれもなく自分に向けられた眼差しに、かつて幾度となくかけられてきた、しかし久しく──カティスの退任の頃からだろうか──その薄い唇から流れ出る事のなかった言葉に、リュミエールの胸は痛いほどの鼓動を打った。




 闇と静寂と、ほのかな白檀の香りの中、穏やかな音が流れていく。指先に思いをこめて、素朴な旋律を、繊細な和音を、心から出づるままに綴っていく。傍らのカウチで耳を傾けていてくれる、その人の存在で、心が満たされていくのが感じられる。

 近づく事さえ許されなかった時間、相手の意識が何処かに行ってしまっていた時間、そしてその衰弱を見守るしかなかった時間を経て、今という時がどれほど幸福なのかを、リュミエールは噛みしめていた。この人の心がどこに向けられていようと、こうしていられるのが自分の喜びなのだと、覚悟も意志も必要ないほど自然に認めていた。

(クラヴィス様……)

他のいかなる時も、いかなる相手に対しても決して覚える事のない想い。無上の喜びと底知れぬ悲しみをもたらし、時に自分でも恐ろしくなるほどの激しさを見せるこの想いを、いったいどう呼んだらいいのだろう。悪しきものとは思われないが、これほど心を支配されていながら、いまだにその正体が分からない。

 戸惑いのままに上げられた視線が、白い面差しを捉える。いつの間に寝入ってしまったのか、クラヴィスの表情からは苦悶の色が退き、司る力に似合った安らぎが現れ始めている。

 リュミエールは静かに竪琴を置き、カウチに近づいていった。暗色の上衣をそっと持ち上げ、主の躯を覆うように掛け直していると、穏やかな気持ちが蘇ってくる。落ち着いて考えられるようになってくる。

 この思いの正体が、もし自分の知るべき事ならば、きっと時が教えてくれるだろう。だから今は、ただこの方の癒しと慰めに努めよう。それができる幸せを、心にしっかりと刻みながら。




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