水の章・4−9

9.


 試験開始が近づくにつれて、聖地は慌しい雰囲気に包まれていった。飛空都市と名づけられた浮遊島の整備が着々と進む一方、研究院や派遣軍、そして宮殿の職員たちは、設備の調整や物資の手配に追われ始めていた。

 守護聖たちもまた、例外ではなかった。補佐官によれば最短でも百日近く、長い場合は数百日にも及ぼうという女王試験の期間を、基本的には飛空都市で過ごさなければならない彼らにとって、移動準備はかなりの大仕事だった。家令や侍従たちに任せられる部分はいいが、職務においても私生活においても、自分にしかできない判断や選択が少なからずある。そういった作業を、すべて執務時間外に行わなければならないのだ。

 ある日の夕方、執務を終えたリュミエールは、すぐ別のファイルを取り出すと、飛空都市用の控えを作る書類の一覧を作成し始めた。もう何日も続いているこのような作業のせいで、眼も肩も痛みを訴えているが、終わりは一向に見えてこない。

(クラヴィス様も、きっと今頃は……)

ふと心に浮かぶのは、やはり黒衣黒髪の守護聖の姿だった。

(……試験準備でお疲れになっているに違いない。早くこちらを終わらせて、お手伝いに向かわなければ)

 だが、急ごうと思うほど集中は続かなくなり、視界も霞んできてしまう。水の守護聖は、なおもしばらく作業を続けていたが、ついに諦めて席を立った。このまま無理を続けるより、廊下でも歩いて身体を解してきた方が、効率が上がるかもしれない。そのついでに闇の執務室の様子を見てくれば、気がかりが減って集中力も戻ろうというものだ。

 そう考えただけで、心なしか身体が楽になったような気がする。机上の書類に区切りの印をつけると、リュミエールは扉に向かって歩き出した。




 高い窓から夕陽の差し込む広い廊下を、侍従たちが忙しそうに行き来している。普段のこの時間なら考えられない、しかし試験発表があってからは珍しくなくなってしまった光景である。

 闇の執務室の扉を叩くと、部屋付きの侍従が姿を現した。

「申し訳ありませんが、クラヴィス様は少し前に退出なさいました。研究院に寄ってから私邸に戻られるとの事です」

「そうですか……ありがとう」

落胆を声に出さないよう気をつけながら、水の守護聖は答えた。クラヴィスが執務時間外に研究院に出向くのは珍しいが、試験準備のために特別な用事でもできたのだろうか。

 そのまま自室に戻るかどうか決めあぐねながら廊下を歩いていると、二人の青年が階段を上ってくるのが眼に入った。

「……第一あの件なら、もう解決したはずだろう」

「だから、説明するって言ってるじゃない──あ、リュミエール」

話しながら歩いてきた炎と夢の守護聖が、こちらを向いて立ち止まる。

「ちょうど良かった、あんたにも聞いてほしい事があるんだ。ちょっと部屋貸してくれない?」

「構いませんが……どうしたのですか」

メッシュの入った金髪の青年が、その美しく彩られた唇を動かす前に、炎の守護聖が答えた。

「また、情報を交換するようにした方がいいって言うんだ、こいつが」

水の守護聖は、海色の眼を見開いた。確かに彼らの情報交換は、女王交代の発表以来一度もなされていなかったが、それは年長者たちの不審な行動の理由が分かり、必要がなくなったからだと思っていた。今の言葉から察すると、どうやらオスカーも同じように考えていたようだ。

「何か……あったのですか、オリヴィエ」

不安そうな問いかけに、夢の守護聖は一瞬だけ物憂げな表情を見せたが、すぐ普段の調子に戻って答えた。

「あんたの部屋で話すから、ね?」




 執務室に戻ったリュミエールは、人払いをしてから同僚たちに席を勧めた。急ぎではないのを確認して紅茶の準備を始めると、オスカーは試験準備の進み具合などについて話しかけてきたが、オリヴィエはひとり窓外を見つめ、言葉をまとめるように考え込んでいるようだった。

 間もなく出来上がった飲み物を手渡すと、ようやく夢の守護聖は微笑を見せた。

「ありがと。あんたのお茶って、いつもいい香りだね」

双眸を閉じて一口味わい、それからおもむろに真顔に戻る。

「さて、本題に入るよ。実はね、この女王交代には、まだ私たちが知らない何かがあるみたいなんだ」

「そんな事か」

あきれたような表情で、赤い髪の青年が応じる。

「俺たちにとっては初めての経験なんだから、今の時点で分からない事があったっておかしくないだろう。必要ならそのつど、ジュリアス様やディア様たちに教えていただけばいい」

その言葉に内心で納得しながらも、リュミエールは夢の守護聖の様子にただならないものを感じ、黙って次の言葉を待った。

 オリヴィエはカップの縁を指でなぞりながら、呟くように言う。

「ルヴァが、図書館から出てこない」

「何?」

眼を丸くするオスカーの横で水の守護聖は、かつてオリヴィエから聞いた話を思い出していた。確か女王交代発表の数週間前、彼は図書館にこもろうとするルヴァを見かけていたはずだ。

「まさか……あの時からずっと、図書館にこもられたままなのですか!」

「まあね。何日かに一度は私邸や宮殿に顔を出しているようだけど、最低限の用だけすませて、すぐまた戻ってしまうらしい」

慎重に言葉を選びながら、オリヴィエは暗い響きの隠しきれない声で続けた。

「執務もあっちでやってるから、書類を持って行き来するのが大変だって侍従がこぼしてたよ。私が訪ねて行っても、調べものが終わらないからって、顔を合わせようともしないし……ねえ、初めてでもない女王交代のためにここまでするなんて、さすがにおかしいと思わない?」

「そうだな」

炎の守護聖が、考え込むように顎に手をあてる。

「いくらルヴァが本に没頭する性質だといっても、大した理由もなく執務に支障をきたすような真似はしないだろう。逆に言うと、その調べものがよほど重要だという事か」

二人の会話を聞いているうちに、リュミエールは胸に不吉な予感が広がっていくのを覚えた。

「それであなたは、何か特別な事がありそうだと言ったのですね。だからこそルヴァ様が、前回の経験だけでは間に合わないと思われて、新たな知識を求めて図書館にこもられたのだと……」

ようやく話に追いついた同僚たちに、夢の守護聖は深く頷いた。

「うん……そこで聞きたいんだけど、ジュリアスやクラヴィスに、最近変わった動きはない?」

 しばしの沈黙の後、まずオスカーが口を開く。

「今のところは、特にないと思う。あえて言えば、ご自身の職務に関していっそう厳しくなられたように見えるが、女王交代という大事を控えているのだから、これは当然かもしれないな。リュミエール、そっちはどうだ」

「クラヴィス様は」

水の守護聖は、ふと言葉を切った。発表前後の酷い消耗については、その理由が理由だけに──現女王への特別な感情のせいなのは、まず間違いないだろう──できるだけ曖昧な言い方に留めた方が良さそうだ。

「そうですね、女王交代の発表後は、これまでとお変わりなく過ごされているようです。むしろ、幾らかお元気になられたと言った方がいいかもしれません。以前は執務をこなすので精一杯なご様子でしたが、近頃では日に何度も占いをされる事があるくらいですから」

「なるほど、ね」

二人の報告に、オリヴィエは安堵と物足りなさの入り混じった表情を見せた。

「さしあたって、特に目立った動きはないみたいだね。まあどっちにしろ、飛空都市に移動する日までには、ルヴァも図書館から出る事になるんだし。けれど私たち、情報だけはやっぱり、これからも流しあった方がいいんじゃない?」

「ああ、それには賛成だ」

「私もです」

全員の賛同により情報交換を続けると決まると、さっそくオスカーが、手に入れたばかりの情報を口にした。

「占いと聞いて思い出したんだが、飛行都市にはあの占い師のサラも滞在する事になったようだ。女王試験に直接関わるとなると、よほど陛下に信頼されているんだろうな」

「サラ……ああ、あの竜族の女性ですね」

しばらく前、パスハとサラという竜族の男女が故郷を逃れ、聖地に庇護を求めてやってきた事があった。部族間の争いを避けての逃避行だったらしいが、それぞれ王立研究院主任と聖地付き占い師という重職についたところをみると、人格的にも能力的にもかなり優れた者たちなのだろう。

 守護聖たちは職務上、パスハとは週に一度程度顔を合わせていたが、特に占いやまじないの用がない限り、サラと顔を合わせる機会はなかった。

「サラちゃんね、私は何度か話した事があるけど、気さくでいいコだよ。占いだけじゃなくてファッションのセンスもいいし……ま、あんな強面の彼氏がいるんじゃ、さすがの誰かさんもオチオチ近づけないだろうけど」

「何だと」

からかう夢の守護聖に、むっとする炎の守護聖。普段どおりの同僚たちの様子を見て、リュミエールは久しぶりにほっとした微笑を浮かべた。




 それから間もなく、守護聖を含む試験関係者たちは、飛空都市への移動を始めた。生まれたばかりの宇宙の惑星の、文明が発祥したばかりの大陸の上空で、彼らは試験の最終準備をしながら、女王候補たちの到着を待ち続けた。

 そしてある日、ついに彼女たちが聖地にやってきたという連絡がもたらされたのである。



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