あざやかな嵐・3
速度を上げると、カートは強風に煽られて激しく揺れ出した。何度も墜落しそうになりながら、チャーリーは必死にバランスを取り続ける。
(これ、最新式の安定装置を採用したカートなんやけどなあ……陛下も、ごっつい嵐を起こさはるわ、ほんまに!)
地表と距離を開けない方がいいと判断した彼は、正面の崖側から接近するのを諦め、迂回して南の斜面から高台に向かう事にした。
通常、人々が馬車や馬で行くのと、同じコースである。
叩きつける雨風と止む気配もない雷の中、やがて、輪郭をほの白く煙らせている黒く巨大な塊が、長い斜面を覆っているのが見えてきた。
南西の森である。
(さすがにここからは、歩いてしか行かれんな……)
チャーリーは慎重に速度を落とすと、できるだけ風を避けられるよう、大樹の根元にカートを停めた。
木々が少しは雨を遮ってくれるとは言え、張り出した根や泥に足を取られながら、斜面になっている夜の森を進むのは、彼の敏捷さをもってしても困難だった。
思った以上の時間を掛け、ようやく森の終わりが近づくと、木立の切れた向こうに、小さな草地があるのが見えてきた。
稲妻が走る度、そこに浮かび上がって見えるのは、人影だろうか。
「セイランさん!」
呼び掛ける声は、風と雷鳴に遮られて届かないようだ。
やむなくチャーリーは、森の斜面を登り続けた。
「セイラン、さ……」
何度目の呼びかけだっただろう、やっと辿り着いた森の端の木に、ロープが結ばれているのに気づき、青年は思わず言葉を止めた。
目の前、ほんの十歩ほどの所までで草地は切れ、切り立った崖になっている。その縁からいくらも離れていないところに、セイランは立っていた。
距離からして、呼びかけが聞こえないはずはない。
だが、彼の横顔は、全ての干渉を拒んでいた。いや、拒む以前に、聖地とその嵐以外の何物も感じ取れないほどに、集中していた。
(この人は……)
目の前の若者が何をしているのかに気づき、チャーリーは言葉を失った。
(嵐を……見てる!?)
強い風に煽られよろめきそうになる度に、その左腕に巻かれたロープが張りつめ、体が機械的にバランスを取り戻す。そうしながらもセイランの両眼は、聖地とその空に据えられたままだった。
近づくにつれて、その整った顔立ちが、狂喜と言っていいほどの輝きを放っているのが見えてくる。
(これも、芸術のためなのやろか……けど、幾ら何でも危険過ぎるわ。何かの弾みに、腕のロープが外れるかもしれへんし、第一、悪い風邪でもひいたら……)
彼は意を決して若者に歩み寄ると、その腕に手をかけた。
細い肩がびくっと揺れ、白い顔が、驚きの表情を浮かべて振り返る。
「………………何……どうして君が……」
答えに窮したチャーリーは、咄嗟に、相手のレインコートが、もはや防水の意味を成していないのを見て取った。
「ええ、ちょっとコートの事が気になりましてな。普通の雨ならともかく、これほどの雨には耐えられへんのではと思って追いかけてきたら、案の定ってやつで」
「……コート?」
「あんたさんの着てはる、それですわ。ああ、こんなに濡れはって……すんません、すぐお取り替えしますさかい、倉庫までお付き合い願えまへんか」
呆然としていた芸術家は、最後の一言を聞くなり、あからさまに不愉快な表情を見せた。
「帰ってくれ」
「そんな、お客さん……商売には信用が第一ですし、役に立たへん物渡してしまったとあっては、俺のプライドにも関わりますよって」
譲ろうとしない青年に、セイランは険しい眼差しを向ける。
「君の商売に信用が大事なら、僕の芸術には霊感(インスピレーション)が必要なんだ」
端麗な面の半分を、白い光が照らし出すと同時に、轟音が鳴り響く。
「うわっ、かなり近うなって来た!」
チャーリーは、思い切って本音を言い出した。
「なあ、いくら必要だからって、これじゃ危険が大きすぎますわ。霊感か何か知りまへんが、命あっての物だねやないですか?」
感性の教官は、一瞬相手を睨み付けると、黙って背を向けた。
「ちょ、ちょっと、セイランさん!」
「……分からない人に言ったって、無駄な事さ」
暗がりで濃紺に染まった髪の間から、甘さの欠片もない声が流れてくる。
「危険を承知の上で、僕はこれを見ようと決めたんだ……君に、同じ様な決断を下した経験があるのなら理解できるだろうし、無いのなら、いくら話しても意味がないよ」
その言葉は、チャーリーの胸に、忘れかけていた記憶を蘇らせた。
(決断、危険、それに、経験……)
まだ社長の任に就く前、身分を隠して行商に出た先で、今夜のような悪天候に合った事があった。
数日の遅れは当然と言える条件だったが、年に何度も人が訪れる事のない集落の、小さな子どもの誕生日に間に合わせるため、彼は宿の人が止めるのを振り切って配達に行ったのだ。
それは、スリルや名誉のためではなく、もちろん利益のためでもない。ただ、そうしなければならないと、それが自分の使命だと、感じたからだった。
(危険は承知の上……か)
「分かった、もう何も言わへんから……せめて、ここで見守っていてもいいやろ?」
「ああ」
穏やかに掛けられた言葉に、芸術家は少し驚いた様子だったが、すぐにその瞳は嵐に向けられてしまう。
熱に浮かされたような声が流れてくる。
「……一分一秒が、これほど貴重に思えた事はないよ。この嵐は、本当に素晴らしい!今夜ここに居合わせた幸運は、いくら感謝してもし足りないほどだ。目だけでなく、耳だけでなく、僕は全身で感じ取ろう……宇宙一美しく聖なる空間が、激しく鮮やかな波に曝されるのを。比類無い眩しさで、自らの生を謳うのを!」
誰に言うともないその言葉も間もなく途切れ、二人はただ眼前の光景に集中していた。
すると突然、“何か”が彼らを襲った。