DIAMOND FLAME5
5.告 白
この急な冷え込みは、雪の前触れに違いない。そう思っている間に、もう白い物が空から舞い降り始めていた。
”白き極光の惑星”に雪は付きものだが、視界も失われるほどの激しい降りに、街路からはたちまち人の姿が失われていく。
ホテルのフロント嬢を相手に軽い会話を楽しんでいたオスカーは、仲間の誰かが帰って来るかと入り口に目を向けていたが、その気配はなかった。
つい先刻までの好天に騙されて外出していた者たちは皆、それぞれに”雪宿り”先を見つけているのだろう。
うるさいガキ共のいない内に剣の手入れでもしようと、部屋に上がって行くと、そこには先客がいた。
こちらに背を向け、窓辺に立つ、すらりとした姿。部屋に入ってきた者がいるのにも気付かず、詩人はただ外を見つめていた。
恐らく何か、芸術的な霊感の働いている最中なのだろう。背は真っ直ぐに伸ばされているものの、いつになく肩の力が抜けて、リラックスしている様に見える。
普段の刺々しさの欠片もないその立ち姿を見つめていると、いつか耳にしたある音楽が胸に蘇ってきた。シンプルだが繊細で、瑞々しい感性と叙情に溢れ、そして崇高なまでに美しかった、ピアノの即興演奏。
音楽には門外漢の自分でさえ、廊下の途中で足を止めて聞きほれた調べ。
廊下、そう、場所は準備中の学芸館の廊下だった。半開きの扉の中は、まだ内装も終わっていないがらんとした部屋で、中央にただ一つ置かれたピアノを弾いていたのは……普段の印象との落差に、つい忘れてしまっていたが、あれは確かに、セイランの演奏している姿だった。
そうか、とオスカーは思った。あのパーティの夜、口を突いて出た言葉、
”閉ざされた空疎な心で、芸術なんて出来るものか!”
これこそが、答だったのだ。
偶然か、無意識に感じとっていたのかは分からないが、自分はあの時、確かに言い当てていた。セイランの心はあまりに鋭い刺に覆われているので、触れた者はつい、刺自体がその本質なのかと思ってしまう。
だが本当はあの演奏の様に、今の後ろ姿の様に、驚くほど豊かで開かれた美しさを持っているのだと。
そう、君はいつでも、痛々しいほどに美しく、強く、貴く……いとおしい。
降りしきる雪の中で街は、時の流れを失ったかの様な静寂に包まれている。窓の外の無彩色は部屋の中の薄暮色と混ざり合い、無辺の空間となって二人を有していた。
無限の時を空間を、君を見つめるために捧げたい。全ての苦難から君を守り、そしていつか、君が誰かと共にありたいと思った時、俺はそこにいたい。
他には、何も考えられなかった。
オスカーは窓辺に歩み寄ると、驚いた様に振り返る若者を抱きしめた。
「セイラン……聞いてくれ」
相手の顔が見える所まで腕を緩め、彼は告げた。
「愛している、永遠に」
言った本人が驚くほどの、簡潔な言葉だった。生涯ただ一つの愛を告白するのに、饒舌な言葉はきっと無用なのだろう。
深い海を思わせる二つの目が見開かれ、輝き……そして、急速に光を失っていった。
「……セイラン?」
訝しむオスカーの目の前で、整った象牙色の面が、恐れとも絶望ともつかない表情に染まる。そして、さまよっていた視線が窓の方を向いた時、それは凄絶なまでの憎しみに変わっていた。
オスカーも窓に目をやったが、雪と、ガラスに映る二人の姿以外は何も見えない。
「どうしたんだ、怒ったのか……頼む、何か言ってくれ!」
セイランは、視線を動かさないまま呟く。
「……誰かを、心の底から憎んだ事があるかい。その存在を、消し去りたいと思う程に」
そこまで言うと、若者ははっとした様に自分の口を押さえた。そして抱かれた腕を振り解くと、逃げる様に部屋を出ていった。
後に残されたオスカーは、呆然と立ち尽くしていた。
X X
指に力を込めようとして、セイランは我に返った。
もう夜半をだいぶ過ぎている頃だろう。この宿では四、五人の相部屋を強いられていたが、昼間の強行軍のせいか、皆安らかな寝息をたてている。
部屋割りは毎回変わるので、誰も理由に気付いていなかったが、今夜の様にオスカーと相部屋になってしまった時は、セイランは出かける振りをして別の宿に泊まっていた。
彼にとって単独行動は珍しくない事であるし、一行の起きる頃には合流するので、これもどうやら黙認されている様だ。
あの告白以来、何とかこちらに話しかけようとしてくる青年を、セイランはここまで細心の注意をもって避けていた。
なのに、気付けばオスカーのベッドの脇に立っている。自分の取った宿をさまよい出て、彼の眠る部屋に忍び込んでいる。
昼間、一行と共にチェックインしていたので、宿の者も止めだてしなかったのだろう。
深い眠りの中にある精悍な顔を見つめながら、若者は自分のしようとしていた事に身震いした。
幸い、誰にも気づかれてはいない。
ほっと息を突いて両手を下ろすと、足音を忍ばせて廊下に出た。
雲の晴れた今宵は、突き当たりの明かり取りの窓から、遮る物もない月の光が明々と差し込んでいる。
白く澄んだ光を見上げ、そして自分の手を見下ろす。
思い違いではない。この使い馴れたパレットナイフは、確かにさっき、自分が最も憎む者の肌に当てられていた。あの精悍な顔を目に焼き付けながら、喉笛をかき切ってしまおうと。そんな事をしても、何の解決にもならないと分かっているのに。
運命からは逃れられない。罪を避けられない。だから、許せない。
「オスカー、オスカー……どうして」
名前を口にするだけで、心はその人の残像に占められてしまう。強い信念を秘めながら涼しく煌めく薄色の目。迷いのない正義を持ちながら陽気に笑う声。眩しいまでの自信を誇る様に鮮やかに靡く赤い髪。
乗馬姿も、剣を振るう動きも、愛する時の呼吸も……全ての残像が、強く暖かい感触を伴って、セイランの中を駆け巡る。目眩のする程の幸福に責め苛まれて、息が震える。声さえ上げそうになる。
そして、あの言葉が響く。
「愛している、永遠に」
迷いも躊躇いもない眼差しが、真実を告げる声が、全ての希望を打ち壊す。
セイランは崩れる様に、床に膝を落とした。
「どうして、こんな事になったんだ……どうすればいい、僕は……」
答えの無い問いを繰り返しながら、彼はただ月を見上げていた。