DIAMOND FLAME7
7. 聖 痕
夜の闇を吸ったかの様に黒い水面に落ちる帯の、その広幅の縁だけが、窓から洩れる明かりを映して煌めいている。
広間で奏でられている弦楽の調べも、ここでは水音の隙間を縫いながら微かに響いてくるにすぎない。
静かな、平和な夜。
その中に身を浸していると、別宇宙からの侵略も女王の幽閉も、全てが夢だった様に思えてくる。
「そういう事にしておくのも……いいかもしれないね」
照明の消えた噴水の傍らに一人ただずむ影が、呟いた。
「この傷が夢の記憶に過ぎないと、自分を騙して、無味乾燥な日々を生きてみるのも、さ」
背後の建物で誰かが扉でも開けたのか、一条の水が銀色の放物線を描く。それは彼に、愛用していた武器を思い起こさせた。
”虚空の城”で待ち構えていた敵は、それまでとは比較にならないほど手強かった。直接攻撃のみならず魔法の得意なモンスターも多く、討伐隊は慎重な行動を余儀なくされた。
そして、ようやく辿り着いた玉座で待っていた皇帝は、部下達に無い特殊な能力で彼らを痛めつけた。攻撃が最強なのはもちろん、自らの耐性を自由に操る力を持ち、こちらの魔法を無に帰す事さえできたのである。
劣勢に追い込まれていく中で、しかし、オスカーは一人、気を吐いていた。セイランの援護を受けながら打ち出す剣は、今まで以上の気迫で容赦無く皇帝を襲う。
無敵と思われた皇帝も次第に弱り、ついにその野望と共に力つきた。
その瞬間、セイランは見た。オスカーが陰りひとつない晴れやかな目で、自分に微笑みかけたのを。
それが、つい昨日の事だった。
皇帝を倒すとすぐに一行は、辺境の惑星に非難していた女王を迎えに行き、共に聖地に帰還した。今夜は、一同をを労うためのパーティが、宮殿の広間で催されているのだ。
宴たけなわの中、セイランはそっと抜け出してこの噴水までやって来た。広間にいると、嫌でも炎の守護聖に目を向けそうになるからだ。
「オスカー……」
呟きは、嘆息に変わっていた。
あの、迷いのない太刀さばき、明るい目……結局彼は、自分への想いを断ち切ったという事なのか。一夜で断ち切れる程度の想いでしかなかったのだろうか。
だとしたら、彼を傷つけるのをあんなに恐れていた自分は、ただの取り越し苦労をしていたというのか。
それならば、それでいい。もう、何も分からない。
早くこの夜が明けてほしかった。翌日になれば、元教官と元協力者、それに新宇宙の女王まで、全員聖地を出なければならないのだから。
今夜はこのまま宮殿を辞して、星でも見ながら過ごそうと決めると、セイランは最後の想いを込めた一瞥をくれるべく、背後のバルコニ−を振り返った。
見間違えようもない姿が、こちらを見つめている。
若者が身を翻して逃げだそうとした瞬間、オスカーは柵を乗り越え、かなりの高さのあるバルコニーから飛び降りた。
「オスカー!」
セイランは、思わず駆け戻った。
「何て無茶をするのさ、どこか怪我は……」
顔色一つ変えずに、赤髪の青年が立ち上がる。
「ああ、無いようだ。俺の骨は特別製だからな」
その様子からして、確かに別状ないらしい。
安堵の息を突くと、若者はやにわに後ろに身を退いた。
「誓いを忘れた訳じゃないだろうね。あなたは、こんな所に来てはいけない筈だよ」
「忘れてなんかいないさ」
そう言うとオスカーは腰の剣を鞘ごと外し、セイランに差し出した。
「……何の真似だい」
「俺は、誓いを破る。もう、これを持つ資格はない」
若者は目を見開いた。それが家宝であり、オスカーにとって命より大切な剣だというのは、聖地では誰一人知らぬ者もない有名な話だった。
立ち竦むセイランに歩み寄り、オスカーはずっしりと重い剣をその手に掴ませる。そして迷いの無い、力強い笑顔で語りかけた。
「自分が傷つかないために、君に心を裏切らせ続けるなんて、人間として正しいとは思えない。そもそもそんな奴に、騎士を名乗る資格などないんだ……あの後、俺は一人で考えて、そう気づいたのさ」
若者は、力無く首を振る。
「馬鹿だよ……あなたは!」
「ああ、馬鹿だ。こんな簡単な事に気づくのに、一晩もかかったんだから」
静かに頷くと、オスカーはセイランの手を取り、自分の胸に当てた。
「君と同じ罪悪感を、消える事の無いもう一つの痛みを、俺にも遺してくれ。ここに深々と刺さっている爪を、何事も無かったかの様に引き抜くんじゃなく……そのまま、君の全ての力をかけて、この胸を裂いてくれ。俺達が共にいた証として!」
アイスブルーの瞳の中で、藍色の髪が、震えながら頷く。
「……あなたを……」
声も震え、掠れている。
「……僕は、永遠に……愛す」
象牙色の肌を伝い、一粒のダイヤモンドがこぼれ落ちて行った。
いつもは使われない天蓋の幕が、今夜は下ろされている。朝を近づけないだけでなく、星々の移ろいさえ拒むかの様に。
それが間もなく傷に変わるのを知りながら、二人は残された夜を惜しむ様に重なった。
「愛してる……ずっと、永遠に」
自ら封じ込め、そしてやっと解き放たれた言葉を、セイランは何度も繰り返す。
その声は次第に途切れがちになり、熱い吐息へと変わっていく。
「……俺もだ」
答えながらオスカーは、相手の全身を慈しみ始めていた。
「剣……返すよ……僕はきっと、心の底で……さっきの……あなたの言葉を、待ち望んでいた……から……」
そこまで告げると、セイランはもう喘ぎを堪えられなくなっていた。
二人の夜がどれほどの長さだったのか、どれほどの想いを伝え合う事ができたのか、オスカーには思い出せない。
ただ、抗いようのない朝の訪れを感じた時、愛する人がそっと囁いた言葉だけは、心にはっきりと刻まれていた。
”オスカー……僕はもう、永遠を恐れない”
彼の赤髪に愛しげに触れながら、セイランは確かにそう言ったのだ。