映  月・3

3.


「リュミエール」

突然の呼びかけに、青年はびくっと肩を震わせた。

 急いで顔を上げると、闇の守護聖の端正な白面が、真っ直ぐにこちらを見つめている。

「お前の故郷に、月は幾つあった?」

思いがけない問いかけに、リュミエールは当惑しながらも素直に答えた。

「はい……一つでした。この聖地と同じように」

「そうか」

ぽつりと答えたクラヴィスが、独り言のように続ける。

「私の……出身惑星には、二つあったようだ」

(クラヴィス様……)

滅多に明かそうとしない過去を話し始めた恋人に、青年は緊張と気遣いのこもった眼差しを向けた。

 それに気づいているのかいないのか、黒衣の男は、更に記憶を手繰ろうとするように、夜空に視線を上げていく。

「そう、大小二つの月があった。だが、時期によっては片方しか見えず……そのような夜空を、私はひどく恐れていたようだ」

「恐れて……?」

無表情に付け加えられた最後の言葉を、水の守護聖は思わず繰り返した。

「小さな月が、大きな月からはぐれてしまったように、引き離されてしまったように思われた。それが、恐ろしくてならなかったのだ」

闇の空間にただ一つ輝く白光を背景に、クラヴィスは深い溜息をつき、それから自嘲の言葉を継ぐ。

「子どもの空想だ……他愛ない」




 しかしリュミエールは、相手の眼差しの遠さに、却って思いの深さを感じていた。

 これまで僅かに語られてきた言葉から、彼はこの人が辺境の流浪民として生まれ、唯一の血縁である母親以外に親しい者もなく育ってきたのを知っていた。

 そして、僅か6歳の時にその母親とも引き離され、守護聖になったという事も。

(小さな、一つの……)

 唯一の身内を見失った孤独な月を、怯えて見上げていたのは、聖地からの迎えが来た後なのか、それともその前に、何か予感を覚えての事だったのか。

(ご自身とお母様を、二つの月に重ね合わせて……)

 恋人の過去の痛々しさに、水色の髪の青年は思わず眼を伏せ、溜息をついた。

 故郷にいた頃の自分も、母親が床に臥せるたびに心を痛めていたものだった。しかし、それでも父や兄妹たちがいた。守護聖になったのも、十代半ばを過ぎてからの事だった。

(けれど、この方は……)

 恐らく自分などには推し量る事もできない痛みを、ただ一人で抱え込んで、並ぶ者もない無辺の闇で、孤独で永い君臨を続けなければならないのだ。

 まさに、孤高の月のように。






『どうして……』

幼い心が、叫んでいた。

『……月と海は、一つになれないんだろう!』




 穏やかに見下ろす月を、さざめき輝く帯として身に纏う海――

 リュミエールの心に、遠い日の思いが押し寄せてくる。

 深夜の窓外、他に何者も存在しないかのような静かな世界で、二者はただ互いだけに向き合っていた。

 あたかも悠久の時を睦まじく添い合っているような、その様子に見とれながら、しかし、両者が永遠に縮まらない距離で隔てられているのを、水色の髪の少年は既に知っていた。

『あれほど、ずっと見つめ合っているのに……』

感傷に過ぎないと分かりながら、どうしても嘆きを止める事ができなかった。

『どうして、これ以上近づけないのだろう、触れられないのだろう!』

 思い出して心を乱すのを恐れ、意識の奥に封じ込めておいた寂しさが、今は別の――当時は想像し得なかった――生々しさをもって襲いかかってくる。




 東屋の屋根に月光を遮られ、細かい表情までは見取れない想い人の横顔が、再び黒い水面に向けられている。

 それを悲しく見つめながら、リュミエールは先刻奏でた曲が、海の曲の中でも特に夜の印象を歌ったものである事を、ようやく思い出していた。

 あの曲と、そして恐らくは今の状況が、自分の中に古い悲しみを呼び起こしてしまったのだろう。

(いかなる時も、人は独りでしかないと、分かってはいるつもりでしたが……)

大切な人の痛みにどうしても追いつけない、その無力感に、青年は思わず溜息をついた。


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