映 月・4
4.
その時、闇の守護聖が再びこちらを向いた。
「もう、弾かぬのか?」
「あっ……失礼いたしました」
我に返った水色の髪の青年は、急いで楽器を構え直し、再び演奏を始めようとした。
しかし、クラヴィスは無言で立ち上がると、外へと歩き出した。
急いで後を追ったリュミエールは、黒衣の守護聖が、数歩も行かず立ち止まったのに気づいた。
(……クラヴィス様?)
白銀の月を背に、無言で見つめてくる姿を、怪訝そうに見返す。
「お前の瞳が……」
呟くような声は、なぜか満ち足りた響きを伴って聞こえてくる。
「……私を、ここに在らしめてくれる」
混乱と当惑に顔を赤らめる青年に、クラヴィスは仄かな笑みを漏らすと、池の方に向き直るようそっと相手の背を押した。
「ただ一つの月を映す、黒く大きな水面(みなも)……昼間の演奏で思い出したのだ。遥か昔、これと似た光景を見た事があると」
「似た……光景」
背から肩に移った手の重みを感じながら、呟くように繰り返すリュミエールに、闇の守護聖は静かに頷き、告げた。
「湖か大河、あるいは海であったかもしれぬ。聖地の使者に連れられ、宙港に向かう馬車からの眺めだった」
母親と引き離された直後の事だと気づき、青年は思わず恋人の面を見上げたが、そこに辛そうな表情はなかった。
「その時、思ったのだ。たとえ大きな月とはぐれようと、これほど一心に見つめてくれる者があるのなら、この小さな月は、もはや独りではないと……安堵と羨望を感じながら」
決して強くはないが、落ち着きと確信を感じさせる声。
「だが、よもや自分にそれが得られるとは、思ってもみなかった。お前のように優しく強い者が、いかなる闇も通すほど見つめ続けてくれるとは」
「そのような……私はただ……」
首筋を辿ってきた手に顎を引き寄せられ、抵抗もなく恋人に面を近づけながら、リュミエールは小さく頭を振った。
しかし黒衣の男は、讃えるように言葉を続けていく。
「自らの価値も存在も定かでない永い闇を経て、お前に見つめられていると知った時、初めて私は自分を認められるようになった。己が紛れもなくここに在ると。在って良いのだと――――感謝している」
そう告げると、闇の守護聖は青年の瞼に口付けた。
(……見つめないではいられなかったのです)
思いがけない恋人の言葉と、それに続く行為に、リュミエールは声にならない呟きを漏らす。
そうして半ば陶然となった意識が、幾重もの心の帳を潜り、最奥にある温かな思いを見出していくのを、彼は感じていた。
(クラヴィス様がいらっしゃるというだけで……何よりも強い喜びを、感じられるから……)
一体、これ以上の何を、自分は求めようとしていたのだろう。
この方の存在を知り、見つめていられるという幸福を忘れ、何を寂しがっていたのだろう。
相手の全ての悲しみを、己のもののように理解したいなどと、思い上がった強欲を覚えるほどに。
同じ様な光景を、近い年齢で眼にしていながら、一人は孤独を脱したと安堵し、一人は寂しいと泣き出した――
幼くして厳しい運命を受け入れていたこの方の、いかに強く無欲であった事か。それに引き替え、幾らか年上であった当時ばかりか、大人になった今さえもその記憶に囚われている自分は……