月光浴4
4.
唇の内側など、普段は人に触れられる事もない。果実を通してでも、その不慣れな感覚は、否応なく神経を集めていった。
紅玉の実は、軽く開かれた口の形そのままに、緩やかな曲線をなぞって滑って行く。先ほどよりも更にゆっくりと移動する刺激に、青年は何故か、呼吸が苦しくなっていくのを感じていた。
そして、長い一巡りがようやく終わると、それは下の歯を越え、舌に乗せられた。
「あぁ……っ」
体の中心に、自分でも驚くほどの衝撃が走る。
「ん……はぁ……」
舌から歯列へ、そして口蓋へ……直に触れられているわけでもないのに、それは確実にリュミエールを翻弄し始めていた。翻弄されているという意識さえもが、更なる昂ぶりを呼び込み、何が起こっているのか分からないままに、リュミエールは全身を戦慄かせていた。
いつしか閉じていた瞼の奧で、目が潤むのを感じながら、青年は声にならない声で愛しい人に呼び掛けた。
「あ……クラヴィ……さ……ま……」
その時、口内に急に酸味が走り、リュミエールは我に返った。
名を呼んだときに、歯が果皮を破ったのだろう。赤い果汁の滲みだした実を、ぽとりと捨てる闇の守護聖の姿が、ようやく開いた目に映った。
水色の髪の青年は、無言で息を整えていた。
クラヴィスの行為も、自分の反応も、共に謎だった。ただ、相手の感情を損ねてはいまいかと、それだけを危惧して、彼は黒衣の男を見つめていた。
もう一度息をついて、男は口を開く。
「どうだ……恐ろしかったか、汚らわしいと思ったか」
「……えっ」
「分かったであろう、私の欲望が何をさせようとしているか……実際には、この比ではない。恐らくは、激しい苦痛と屈辱の中に泣き叫ぶ事となろう。そうならぬ内に、早く……」
辛そうな声と共に、白く長い指が、帰路を指し示す。
(クラヴィス様……)
確かに、恐ろしくなかったわけではない。呼び覚まされた本能を、自分でも汚らわしいと感じているのかもしれない。
(けれど……)
自身の中にも、それを望むものが確かに存在しているのに、リュミエールは気づいていた。いや、もしかしたら自覚がないだけで、この身の中には、もっと恐ろしく汚らわしい行為への欲望が存在するのかも知れない。
まして、それが愛する人の望みでもあるのだとしたら、どうして恐れていられるだろう。汚らわしいなどと思えるだろうか。
青年は、一歩前に踏みだした。
「連れて行って下さい。クラヴィス様の心の奧に……欲望の潜む処に」
闇の守護聖は、身を震わさんばかりに激しい驚きを見せた。
「馬鹿な……!お前には、清浄と平穏こそが相応しいのだ。闇に身を沈めるなど……」
「いいえ」
声こそ静かだったが、その面には一点の迷いもなく、真っ直ぐに相手を見つめている。
「花は散り、鳩は死にました……この想いに気づいた時から、私の心には既に、清浄も平穏もありません。慕わしい方を、少しでも近くに感じていたいという、ただ一つの願いに占められて……」
海色の、大きな瞳。それを縁取る水色の睫毛は、月明かりを端に宿して明るく並び、柔らかな線の頬から顎にかけての火照り、唇の鮮やかすぎる血色は、先刻の愛撫の余韻に違いない。
闇の守護聖は、改めてその面に見惚れ、言葉を失っていた。
「……我が身がどうなろうとも悔いません。それがクラヴィス様の……私への想いからならば、どのような欲望も貴んで受けられます……離れたくないという、この心だけを私は信じます。ですから、どうか……」
逡巡する闇色の男と、想いを込めた眼差しの水色の青年を、曝すかのように照らし出す白い光。
やがてクラヴィスは意を決したように頷くと、小枝を湖に投げ、両の腕を開いた。
今や情炎のはっきり現れた紫の双眸が、見据えるが如く、リュミエールの瞳を捉える。
長い腕の中、上布の内部は、銀糸も隠された漆黒。衣の黒と合わせて、そこには、奥行きも測り知れぬ完全な闇が生まれていた。
ただ一つ輝きを放つのは、胸に下がる長く真直な髪の艶のみ。
「……来るがいい」
「はい」
青年は幸福そうに微笑むと、ゆっくりと闇に身を寄せていく。
風に乗って遅れた水色の髪の一条が、最後の光を映して、銀の残像を描いていた……