やわらかな腕・2

2.


 「明後日、もう一度ピクニック、だって?」

日の曜日の夜、突然訪ねてきた商人を、セイランは信じられないという表情で見返していた。

「しかも、わざわざあの惑星まで?……まったく、よくそんな事を考えつくものだね。試験も大詰めだっていうのに」

 部屋の明かりに艶やかに映える藍紫の髪、切れ長の大きな瞳とほっそりした鼻梁の下で、形良い唇が、あきれたような笑いを浮かべている。

 その部位の甘やかな感触を思い出しながらも、チャーリーは何とか平静を保ち、話を続けた。

「ええ、店じまい中にいきなり思いついたんですわ。それでさっき、補佐官様に頼みに行ったら、やっぱりそんな顔されてしもうて……何でも女王候補さんたちは、もう安定度も充分になってはるそうで、多少妨害し合うたとしても、まず間違いなく今週中に育成を完了しそうや、よりによってそないな時期に出かけるんか、みたいに言われましたっけ」

 ここで一度言葉を切ると、ライトグリーンの髪の露天商は、ちょっと得意そうに胸を張って見せた。

「せやけど俺は、こう聞き返したんです。“ほな教官さんたちも俺も、もう試験には用無しやから、少しくらい聖地を離れても構わんいう事になりまへんか?”って……で結局、最後にはロザリア様も納得されたらしうて、明日は急すぎるよってに明後日いう事で、許可を下ろしてもろたんですわ」

 感性の教官は、軽く肩をすくめると、ため息混じりに答えた。

「君ときたら……まあ、逆説的な真理ではあるね」

「大きに!それに芸術家さんだって、本当はあのきれいな星に、もう一回行ってみたいんやないですか?」

人懐こいヘーゼルの瞳が、さり気なく、相手の顔をのぞき込む。

「そうやって、他の人たちにも一人ずつ、メリットを説いて回るつもりかい?こんな時間から、ご苦労様」

 眉をややひそめてはいるが、セイランの声に、言葉ほどの刺は感じられない。これは、“行ってもいい”という意味だと踏んだチャーリーは、声が上擦らないよう気をつけながら、さりげなく補足を口にした。

「構いまへん、行くのはセイランさんと俺だけやから」

「……そう」

 若者は何の反応も見せず、ただ、その象牙を削ったような指で、ゆっくりと髪をかき上げただけだった。

 わずかな沈黙の間に、相手がどのような思いを巡らせたのか、あるいは巡らせなかったのか、チャーリーには読みとれなかった。




 学芸館を出た商人は、その足で聖地の門をくぐると、近くにある町の一つに向かった。

 そこには、彼が聖地での商売の拠点として、何ヶ月も借りっぱなしにしてきた部屋があるのだ。

(あと何回か使うたら、こことも縁が切れるんやな……)

ベージュ系でまとめられた、清潔だが無個性な中流ホテルの一室を、チャーリーは柄にもなく感傷的に見回した。

 あまり広いとは言えないクロゼットには、これから店に出す商品や持ち帰った商品の箱、それに出社用の服装一式までもが、効率よく納められている。

(色々と珍しい経験もさせてもろたけど……結局この数ヶ月って、俺にとって何やったんやろう)

 物思いに耽りながらも、体は習慣のように荷物を解き、整理を始める。商売道具を確認して片づけ、持ち込みのパジャマとリネンを取り出す。

(そう、初めてこの露天商の格好をした時、俺は考えていたんや……もし自分が、うちみたいな財閥の血筋に生まれへんかったら、一体どんな生き方をしてたんやろうって)

バスタブに湯を張りながら、寝やすいようにベッドを整えていた青年は、ふと、窓ガラスに映った自分の姿に目を留めた。

「どうなんや、ウォン抜きのチャールズ……いや、ファーストネームも無い、ただの商人さんよ」




 もし商売人以外の家に生まれていても、やはりこの仕事を選んでいただろうと思う。それほどに売り買いというのは面白く、奥が深く、飽きる事がないのだから。

 状況によって絶えず変化する価値を読むのも、それによって利益を得るのも楽しいし、自分が売り買いした物によって人の幸せを手助けし、場合によっては命さえ助けられるというのが、この上ない充実感を与えてくれる。

(それに、何やったかよう思い出んけど、子どもの頃、商いの事で、胸がきゅーっとなったような覚えがある……)

懐かしげに首都の方角を見つめていたヘーゼルの瞳が、突然、温かな光を帯びた。

(……そうや、あの魔法や!)




 まだ幼い子どもだった、ある日。

 たまたま手元にあった何か(玩具か菓子か、あるいは日用品だったかもしれない)がどこで作られたのか、ふと興味を持った事があった。

 そこで、パッケージに書かれていた地名を手がかりに調べてみると、それが遙か彼方の一惑星で作られ、運ばれてきた物なのが分かり、自分は思わず身震いしたのだった。

 手の中にある物と、途方もなく遠い地とが──何の関連もない、一生会う事もないであろう人と人とが──この上なくありふれた、商売という行為によって、まるで魔法のように結びつけられ、繋がっている。

(それに気づいた時、ドキドキして、鳥肌が立って、そんで……めちゃ嬉しかった)

 人と人との関わりが好きだ − 幼い日に気づいたこの思いは、人を助け幸せにしたいというのと同じくらい、今の仕事の原動力になっているのではないだろうか……

「……なんてな、単に寂しがりなだけかもしれへんけど」

 冗談のような口調で呟くと、青年はふと真顔に戻った。




 忘れかけていた大切な出来事を、こんな風に思い出せたのも、聖地に通い続けてきたからだろう。

 ごくたまに仕事で行くだけでは気づかなかったが、あそこには何か、人の気持ちに深みや余裕を与えてくれる力があるように思える。

 きっとあそこは、人が余計なしがらみを忘れ、本当に大事なものだけを感じられる、特別な場所なのだろう。

(けど……それも、もうじき終わりやな)

 試験が終わってしまえば、もう聖地には通えなくなる。守護聖様方はもちろん、外から来てここで出会った人たちとも散り散りになり、すべては夢のような思い出となって消えていく……

(いいんか、それで?)

 自分に向けた問いに、チャーリーは真剣な声で答えた。

「その答を出すために、明後日、出かけるんや」


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