やわらかな腕・5


5.

 あまり喋る事もないまま、チャーリー特製サンドイッチの昼食──セイランはほとんど食べなかったが──を終えると、二人はそれぞれ川原の岩に腰掛け、無言で水面を見つめた。

 (ようやく、だいぶ落ち着いたみたいやな……けど、“死骸を埋めた”いうのは、一体何の事だったんやろう)

 チャーリーは、若者の横顔を眺めながらしばらく考えていたが、時間ばかりが経っていくのがもどかしく、ついに思い切ったように話しかけた。

「ちょっとええか?……あのな、さっき聞かせてもろた、あんたの事情やけど」

 振り返った若者の面が平静を保っているのを見て取ると、彼は言葉を続けた。

「もちろん、言いたくないんやったら、そのままでええ。けど、もし誰かに言った方が楽になるなら、いつでも俺が聞き手になるし、どっちでも同じや思うんなら……できたら、教えてくれへんかな」

 問いかけが聞こえているのかいないのか、藍紫の髪の若者は、表情一つ変えずにこちらを眺め続けている。




 そのまま時間は過ぎていき、川面に映る光は、いつか薄く色づき始めていた。

 唐突に、若者が口を開く。

「“どっちも同じ”でも聞きたいなんて、本当に物好きだね」

長い間黙っていたせいか、普段以上にハスキーな声が、せせらぎに溶け込んでしまいそうだった。

「君には……いや、僕以外なら誰にとっても下らない話だから、聞いたって、ただ後悔するだけだと思うよ」

「話してや」

 穏やかに促すチャーリーをしばらく見つめた後、セイランは、まるで他人事のような表情で話し始めた。




 「……あれは、**画廊と契約していた時だから、もう何年前になるのかな、まだ僕の作品が今ほど広く理解されていなかった頃の事だ。

 僕はある所から、自画像を描くよう依頼された。別に断る理由もなかったから引き受け、描き進めていたんだけど、どうしても頬や唇の赤みが、思ったように出せなかったんだ。

 その時、絵の具を混ぜていたパレットに、不意に現れた色があった。

 輝くように活き活きして、キャンバスにも映える……でも、恐ろしく嫌悪感を覚える色だった。

 それが何なのかは、すぐに分かった。昔、小さな子どもの頃を過ごした村が、一夜にして灰となってしまった大火事の夜の、忌まわしい炎を映した空の色だった。

 あの火事のせいで、親しくしてくれた人たちが皆打ちひしがれ、不幸になったのが、小さかった僕にもはっきりと分かった。住民たちは四散していき、貧しくも美しかった、故郷として愛し続けたかった村は、再興の望みもなくうち捨てられたままだ。

 その憎むべき色、しかも僕の顔とは似ても似つかない、一枚の絵としてもそぐわない赤の色を、僕は──僕は、自分の血色に使ってしまった」




 「何やて……!」

ライトグリーンの髪の青年は、思わず声を上げかけ、急いでそれを抑えた。

(おっと、また取り乱してしもうたら、何の役にも立たへん。落ち着け、落ち着け俺)

 一つ息をつくと、チャーリーは改めて聞き直した。

「なあ、自分の気持ちに逆らうなんて、あんたらしうないやんか。それに何より……あんた自身が傷ついたんと違うか?」

「分かっていたよ」

若き芸術家は、恐ろしいほど静かな声で答えた。




 「分かっていた。大切な思い出も芸術も、自分自身をも汚し……それでもきっと、見栄えのするこの絵は、ある程度の評価を得るだろうとね。

 あの時の僕は、そんなにまでして、名声が欲しかった。それほどに、弱くなっていた。

 ずっと自分のペースで、自分だけの美を創っていく事に満足していた筈だったのに、あの時突然、飢えたように、目先の評価を求めてしまったんだ。

 僕は……“何か”になりたかった」




 そこで言葉を切ったセイランは、ゆっくりと立ち上がると、視線を空に移しながら続けた。

「ちょうど、自分の選んだ芸術という道が、どこまで行っても果てのない、永遠に満足の得られない道だというのに気づいたばかりの頃で……

 その無限さを恐ろしいと思った時、急に……まだ何者でもない、頼れる者もない不安定な自分が心細くなって、それまで気にした事のなかった“孤独”さえ辛く感じるようになって……

 怖くて、たまらなかったんだ」




 聖地にも負けないほど澄んだ青空を、セイランはしばらく見上げていたが、やがて小さく頭を振ると、ゆっくりと斜面を登り始めた。

 チャーリーも急いで走り寄り、いつ倒れかかられてもいいよう足場を確かめながら、一歩後ろに続いた。

 その気配を察知したのか、悲しいほどに細い背の向こうから、また言葉が流れ出す。




 「……予想した通り僕は、あの絵によって高い評価を得たし、その結果として、異例の若さで美術協会のメンバーにも選ばれた。

 けれど、少しも落ち着いた気持ちにはなれなかった。あれ以外、自分を裏切るような作品は一つも創らなかったのに……それでも、いつもあの色が目の前にちらついて、どんな赤を使ってもあの色になってしまいそうな気がした。

 それで僕は、気持ちを整理するために、あの絵を取り戻そうと思った。

 ただ、ちょっとトラブルがあって──依頼主が買い戻しに応じようとしないので、半ば強奪みたいな形になってしまったせいで──協会は除名されたし、そこから続いていたであろう僕の将来も、断たれてしまった。

 あの色に怯えながら芸術家を名乗り続けるより、ずっとましだったとは思うけど、それにしてもね……自分を裏切ってまで求めたものが、あんなに簡単に手放せるようなものでしかなかったなんてさ、我ながら、あまりの馬鹿らしさに笑えてくるよ」


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