迷惑な密室事件・3



3.

 首座の守護聖は、いつもながら威厳のある姿で執務に勤しんでいた。こちらを見る真っ直ぐな視線も、背筋の伸びた端正な姿勢も、どこまでも曇りない高潔さを現しているようだ。

 だが──オリヴィエは見逃さなかった──豪奢な上布を掛けたその衣装は、キャンバスを隠し持つのに最適ではないだろうか。証拠とまでは言えないが、一応、気に留めておいた方がいいかもしれない。

「オリヴィエ、何か用か」

書類も持たず執務室を訪れた同僚に、ジュリアスは尋ねた。

「うん、セイランの事なんだけど……あんた、あの子の絵って興味ある?」

「見た事はないが、抽象画が多いと聞いている。私の好みとは違うようだな」

黄金の眉の間に、薄く縦線が入ったのに、夢の守護聖は気づいた。

 しかしそれは、動揺したというより、単にセイランの名前に反応しただけかもしれない。規律や序列に関心を払わない芸術家の言動を、彼が日頃苦々しく思っているのを考えれば、不機嫌が顔に表れるのは自然な事だった。

「さっき、あんたがあの子の部屋に行ったって聞いたけど」

「そうだ。留守だったので、書類を置いてきただけだが」

眉間の陰が、すっと濃くなった。

 その意味を突き止めようと、オリヴィエはもう一段階、事件に近い話を出してみる事にした。

「学習室の隣ってさ、もう一つ部屋があるんだよね。知ってた?」

「準備室だな。教官の休憩と資料保管に使われるそうだ──オリヴィエ」

ついに、声に怒りがはっきりと表れた。ペンを握っている右手が震え、机上に置いた左手にも力が入っている。

 これはもしかしてビンゴなのか、図星をついたのだろうかと夢の守護聖が思った瞬間、ジュリアスは自らその理由を口にした。

「貴重な執務時間を、世間話で潰すつもりか。用があるのなら、早く言ってもらおう」

「あ……あはは、ごめん、何でもないんだ。じゃねー」

相手を苛立たせていたのが、他ならぬ自分の質問だった事に気づき、オリヴィエは逃げるように光の執務室を後にした。





「これはオスカー、書類を持ってきてくれたんですか……っと!」

執務室の扉を開けた炎の守護聖に、高みから声が掛けられた。

 壁を覆う書棚沿いに視線を上げると、梯子に乗った地の守護聖が、危ういバランスを取ろうとしているところだった。

 上の段から出したのか、何冊もの本を抱えたまま、姿勢を崩しては踏みとどまり、また崩しては踏みとどまるのを、オスカーは黙って見つめていた。

「今下りますから、ちょっと待っててくださいねー」

何度かの繰り返しの後、ようやくルヴァは無事に床まで下りると、本を机に置いた。

「はー、お待たせしました。それで書類……は、持っていないようですね」

「ああ、ちょっと話があるんだ」

なかなか息が整わない地の守護聖を眺めながら、オスカーは心の中で“違うな”と呟いていた。

 いつセイランが戻るかしれない状況で、キャンバスを金具で留め、隠して持ち出さすなどいう芸当が、 ルヴァにできるとは思えない。

 とはいえ、何も聞かずに帰るのも不自然だし、捜査をさぼったと思われてはしゃくにさわる。炎の守護聖はそう思い直すと、軽く探りを入れてみた。

「ちょっと聞きたいんだが、セイランの絵っていうのは、ルヴァから見てどんな物なんだ?」

「セイランですか。そうですね、多いのは抽象画ですが、具象画も少なからず描いていますし、最近は立体に描いたりもしていますね。現代美術の中でも独特の位置を占めていて、美術史の流れからいうと……」

 いつ終わるとも知れない講義が始まってしまったのに気づき、オスカーはしまったと思った。

「いや、聞きたいのは、そういう事じゃない」

急いで遮ると、地の守護聖はきょとんとして言った。

「では、どういう事でしょう」

「つまり、あいつの絵が好みかどうかなんだ。見た事があれば、だが」

「ええ、見ましたよ。色はきれいだし、迫力のあるタッチだと思いました。残念ながら、何が描いてあるかはわかりませんでしたがね」

いつもどおりの柔和な顔から、疚しさや不安などは感じられない。実際のところ、疚しい時にルヴァがどんな表情になるのかは知らないし、想像するのも難しいのだが。

「でもそう言ったら、あの人は喜んでくれましたよ。きれいで迫力があると感じた事が重要なんだ、その感性こそが芸術だとね。いや、勉強になりました」

「そうか」

どうでもいいという気持ちを隠そうともせず、炎の守護聖は無表情に答えた。

 この調子なら、きっと何を訊いても嫌がらずに、質問の何倍もの文章量で答えを返してくれるだろう。その膨大な話の中に、手がかりが必ず出てくるというのなら、頑張って聞こうという気にもなるのだが、どうしても、徒労に終わる予感しかしない。

「そうそう、セイランといえば、少し前に弦楽四重奏曲を発表したんですが、これが、宇宙中で大評判だったようですよ。彼独特の音に、様々な地域と時代の響きを取り込んで……」

 オスカーは、大きく息をついた。どうやらまた、新たな講義が始まってしまったらしい。





 品位の学習室をノックすると、礼儀正しい返事が聞こえたので、リュミエールは扉を開けた。

「リュミエール様、こんにちは」

南国風の 執務服を着た少年が立ち上がり、丁寧に挨拶をする。

 自らも挨拶を返しながら、水の守護聖は年若い教官を見つめた。体型こそ華奢だが、この大きなショールの中ならば、キャンバスを隠せるかもしれない。

 そんな考えが浮かぶ自分を空恐ろしく思いながら室内を見回すと、書棚の一角に、童話の本が納められているのが眼についた。

「あは、見つかってしまいましたね」

視線の先を追ったのだろう、ティムカは少し照れくさそうに言った。

「僕、時々童話を読むんです。大きくなってから──皆様から見ればまだ子どもですが──読み返してみると、昔わからなかった事に気づいたりして、案外、面白いんですよ」

 リュミエールは、自らを責めたい気持ちになった。こんなに澄んだ眼で答える少年が、悪事など働くはずがない。もう、彼は容疑者リストから外していいのではないだろうか。

「それに、挿絵が多いのも楽しいんです。僕、きれいな絵が大好きなので」

 水の守護聖は、息を呑んだ。オリヴィエの言うとおり、犯人がセイランの絵に魅せられて盗んだのなら、美に敏感で純粋な者ほど嫌疑が濃い事になる。

 来客が黙り込んだのに気づき、ティムカは心配そうに呼びかけてきた。

「リュミエール様?」

「ああ、すみません……」

このまま帰ってしまいたいが、それでは疑惑が残るだけだ。ここは心を強く持って、事件に関する質問をするべきだろう。それで容疑が晴れれば、一番いいのだから。

「そう……絵といえば、あなたはセイランの描く絵を、どう思いますか」

思い切って尋ねると、少年の黒い瞳には、躊躇いの表情が現れた。

「いくつか見せてもらった事がありますが、僕にはよくわかりませんでした」

「そうですか」

素直な反応に、水の守護聖は少し安堵した。

 すると、品位の教官は思い出したように、にっこり笑って言った。

「そういえばセイランさんって、勝手に作品を見られないように、出かける時は必ず準備室に鍵を掛けるんだそうですよ。意外と几帳面なんですね」

「……何ですって」

南国の色彩も鮮やかな室内に、リュミエールの動揺した声が響いた。



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