ナイトライト・サロンへ | A.B.C.D.E.の分へ | K.L.M.N.O.の分へ | P.Q.R.S.T.の分へ | U.V.W.X.Y.Zの分へ |
11/06のお題 "F": feasance (<法>約定・義務などの履行) 海を臨む丘の上に、もう“あの木”は立っていなかった。ぽつんぽつんと建っていた民家も今はなく、あたり一帯が、眺めのいい公園になっていた。 柔らかな草の生えそろった広場で、近在であろう子どもたちが遊び回っている。 気が抜けたようにそれを眺めながら、リュミエールはひたすら自分を責めていた。 『兄さんが大きくなったら、どんな人を好きになるのかしらって、ずっと思っていたの』 大木にロープを渡しただけの古いブランコに腰掛けて、妹はそう言った。 まだあどけなさの残る顔に、時折どきりとするほど大人びた表情を見せるようになってきた、そんな年頃の少女だった。 さらさらしたプラチナブロンドの髪を指に絡めてはほどきながら、妹はしばらく黙っていたが、 やがて寂しさを隠すように笑顔を作ると、こう言ったのだった。 『だからね、いつか兄さんに恋人ができたら、ここに──この木のところに連れてきてほしいの。いいでしょう? そうしたらきっと私にも見えるから、二人を祝福してあげられるもの』 それはリュミエールが聖地に向かう数日前、記憶に残るほとんど最後の会話だった。 公園の入り口のところで待っている丈高い姿を、リュミエールはちらりと振り返った。 闇の守護聖クラヴィス。 長い間に想いを育みあい、今は深く通じ合う仲となったその人は、この休暇の過ごし方をすべてリュミエールに委ねてくれた。 最低限の護衛はつけていても、聖地外でほぼ自由に動けるという、めったにない機会だというのに、何も聞かず恋人の希望を受け入れてくれたのだ。 (なのに、私は……) あれから数え切れないほどの歳月が過ぎているというのに、こういう事態を予想もしないで、意味のないわがままに付き合わせてしまった。 妹との約束も果たせず、恋人にも迷惑をかけ、いったいどう償ったらいいというのだろう…… 「兄さんが好きなのは、あの人ね」 少女の声が耳に届き、水の守護聖はその青い眼を見開いた。 すると見知らぬ兄妹が、話しながら側を通り過ぎるのが眼に入った。 思わずため息をついて視線をそらすと、澄んだ声が呼びかけてくるのが聞こえてきた。 「私はここよ!」 振り返ると小さな女の子が、離れた友達によびかけている姿が見えた。 その後ろでは、さらさらしたプラチナブロンドの子どもが、父親の押すブランコで嬌声を上げている。 「もっと押して、もっと!」 どの声にもどの表情にも、たしかに覚えがある。リュミエールはゆっくりと顔を上げると、公園を見回した。 ベンチの母親に抱かれた赤子の愛らしさ、元気いっぱいに走っていく小さな足、歌いだす声、あどけないしぐさ── 子どもたちの誰もが、妹の欠片を持っていた。生まれた時から側で見てきた妹の無数の姿、それと同じ輝きが、胸の痛いほどの鮮やさでそこに存在していた。 リュミエールは眼を閉じると、ゆっくり両腕を広げた。すると、かつて妹を抱きしめたときのような温もりが、心に広がっていくのを感じた。 (あなたは、ここにいるのですね……ここで私たちを、祝福してくれているのですね) 「用事は終わったのか」 入り口に戻ってきた青年に、クラヴィスが声をかけた。 「はい……お待たせいたしました」 連れ立って帰ろうとすると、少し離れたところから親子連れが声をかけてきた。 「先ほどは、ありがとうございました」 「おじちゃん、ありがとう!」 水の守護聖が眼を丸くしていると、クラヴィスは無表情のまま答える。 「お前を待っている間、あの親子のボールが木の枝に乗ってしまったので、取ってやったのだ」 「そう……ですか」 ますます驚いて言葉も続かないリュミエールに、闇の守護聖はゆっくりと歩き出しながら言い足した。 「この公園にいると、不思議と気分がよくなるようだ……理由は分らぬが」 急いで恋人の後に続きながら、リュミエールはそっと後ろを振り返る。潮風の中で微笑む少女の姿を、彼はそこに見たような気がした。 |
Fin |
11/07のお題 "G": grab (ひったくる、いきなりつかむ、横領する) 苦しそうに半身を折っていた青銀の髪の青年は、ようやく呼吸が整い始めると、闇の守護聖を険しい眼でにらみつけた。 「おのれ……捕虜の分際で」 その咽喉には、血のにじみそうなほどくっきりと指の痕が残っている。 自ら相手の激昂を誘っておきながら、このような目に合うとは予想していなかったのだ。 彼の部下が四、五人がかりで押さえつけて、ようやくクラヴィスは抵抗をやめた。 だが、冷たいほど端正なその双眸には、まだ憤怒の色が燃え続けている。 「縛りつけなさい」 言い捨てるように命じて、青年は部屋を去っていく。 部屋の一隅に差していた、目を凝らさなければ分からないほどの淡い影が、静かに揺れながら消えていった。 暗い坑道を歩いていくと、見張りの詰所に使っている大きな部屋に出る。そこに黒髪の守護聖の姿を見出して、青年はその美しい顔をしかめた。 「何か用でもあるのですか、カイン」 「レヴィアス様がこちらに来られると聞いたから、連絡に来た。首をどうした?」 「あなたには関係ありません」 不機嫌さを隠そうともしない青年に、カインは冷静に言った。 「その姿で、闇の守護聖を挑発でもしたのだろう、ユージィン。 止せとは言わないが、親しい相手だという情報があるのだから、せめて手足ぐらいは拘束してからにすべきだったな…… 水の守護聖を見張っているのは私だが、とてもこの姿で近づく気にはなれない」 「ふん、“リュミエール様”があなたの首をしめたのなら、さぞ見ものだったでしょうに」 紅い瞳に冷酷な光を宿したユージィンが、薄い笑みを浮かべる。 カインは無表情にかぶりを振ると、口調を変えずに続けた。 「私は檻の外からしか会っていないので、実際には嘆いたり、口惜しそうに泣いたりするだけだったが、あの憤り方は尋常ではなかった。 どうやら彼らの結びつきは、情報以上に深いようだな」 その時、突然部屋の一隅が暗くなったかと思うと、空気を裂くように一人の男が姿を現した。 「レヴィアス様」 異口同音に呼びかけ、床に額づく二人の部下に、男は威圧感のある声でたずねた。 「守護聖どもの様子は」 「はい、炎の守護聖はまだ目覚めておりません。闇の守護聖は先ほど目覚めましたが、この姿で話しかけたところ、いきなり私につかみかかってきました…… “闇に染まった私ならばともかく、その姿を取る事だけは許さぬ!”などと言いながら」 「それは知っている。先刻、お前たちの気付かぬ形であの部屋を見ていたのだ」 「ご覧になっていたのでしたら、話が早い。クラヴィスという男、命を奪う事は出来ないとしても、少々痛めつけてやった方がよろしいかと」 レヴィアスはそれに答えず、何事か考え込む表情で、闇の守護聖の幽閉されている方角を見つめた。 「どうなさったのですか」 ユージィンが苛立って声をかけると、独白のような呟きが返ってきた。 「闇を知り闇に染まり、それを裡に宿してさえいながら、己を見失うほどの情を抱く相手がいる……か」 カインの切れの長い紅眼が、大きく見開かれた。 「レヴィアス様、まさか、例の娘の事を……」 何の事かといぶかしむユージィンを後目に、レヴィアスは冷然と答えた。 「くだらぬ。我が共感でも覚えると思ったか」 カインが謝罪するように一礼すると、その主は口調を変えず続けた。 「だが、今いためつける必要もないだろう。幽閉が長くなれば、いずれ奴らも絶望し変節していく……その様を見るも一興だ」 「なるほど」 青銀の髪の青年が、腑に落ちた様子で微笑を浮かべる。そちらに軽く頷くと、レヴィアスはもう一人の部下に眼をやった。 「何か報告でもあるのか」 「いいえ、ご様子を拝見したかっただけです」 カインは即座に答える。 レヴィアスは微かに不審な表情を見せたが、すぐにいつもの厳しい面に戻ると、引き続き守護聖たちの幽閉と監視を続けるよう言い残して姿を消した。 「ユージィン、私も戻る事にする」 「せいぜい頑張って水の守護聖を見張って下さい。まったく、用も無いのに持ち場を離れるなんて、よくレヴィアス様の怒りを買わなかったものですね」 皮肉を浴びせらながら、カインは詰所を出た。 携えてきた情報を伝えるのは、もう少し待った方がいいのかもしれない。 幽閉中の女王を救うべく動き出した新宇宙の女王が、かつて主君の愛した娘と瓜二つだという情報──魔導をあやつるレヴィアスならば、 あるいはもうつかんでいるかもしれない情報だが、今の様子を見る限り、自分から口に出すのは慎重にならざるを得ない。 (己を見失うほどの情……) かつては自分にもあったはずのそれを抱き続けている、そして自分の体の素でもある闇の守護聖に思いをはせながら、 カインは水の守護聖の幽閉されている惑星へと戻っていった。 |
Fin |
11/08のお題 "H": henceforth (今後は、これからは) ようやく想いを通わせて以来、クラヴィスとリュミエールは、毎週末をどちらかの私邸で共に過ごすようになっていた。 重厚だがやや陰鬱な雰囲気の闇の館と、陽光や水の流れに包まれた瀟洒な水の館。 特に決めごともなくそれらを交互に使っていた二人だったが、回数を重ねるうち、しだいにそれぞれが、 自らの館の方がよいのではないかと思うようになっていた。 とはいえ、万事をおっくうに思うクラヴィスと何でも遠慮しすぎるリュミエールでは、習慣を変えようという話しあいなど起こるはずもない。 もちろん、共に過ごせるだけで幸福なのはいうまでもなかったが、それでも互いに自分の主張を胸に秘めたまま、いく週もの日々が過ぎていった。 めずらしく執務が早くおわり、まだ日のあるうちに私邸に戻ったクラヴィスは、足の向くまま散策に出ながら、ひとり物思いにふけっていた。 明日の土の曜日は、水の館を訪れることになっている。 むろん、リュミエールと二人きりでいられるのは嬉しいが、それが闇の館だったらもっとよかったと思う。 もともと外出するのが好きな質ではないし、あの館は時折、庭に巡らせた水の面が眩しすぎて、眼をいためそうな気がするのだ。 こちらの好みにあわせて強い酒を置いてくれるのは嬉しいが、明るい淡色の内装に似あうのは、やはり軽い酒か、いっそハーブティなどだろう。 そう、内装といえばあの館は、こちらの望む雰囲気にも持ちこみにくいのが最大の難点だ。 つねに夕刻か夜のような闇の館ならば、昼間でもリュミエールはあまり躊躇せず応じるようだが、水の館にいる時は、 どうもはぐらかされることが多いように思われる。 (これは……問題だ) 長い指を固く握りしめると、クラヴィスは明日こそ言おうと決心した。週末はこれから、いつも闇の館で過ごすことにする、と。 時間通りに執務を終えたリュミエールは、馬車で帰途につきながら、明日からの週末に思いをはせていた。 あの方がいらっしゃったら、まずはハーブティとお菓子でおもてなししましょう。 ご自分では気づいていらっしゃらないかもしれないけれど、近頃は少しお顔の色が優れないようですから、 疲労回復効果のあるハーブをお茶とお菓子にブレンドして、おいしく召しあがっていただきましょう。 本当に、毎週末を水の館で過ごせたらいいのに。 闇の館も好きだけれど、あそこには静かな夜しかないように思われる。 あの方には、もっと日の光にあたって健康になっていただきたいし、自分が集めてきた沢山の美しいもの、おいしいもの、 香りや肌触りのいいものをご紹介して、さまざまな喜びに気づいていただきたい。 (クラヴィス様が、もっと生を楽しんで下さったら……それだけが、私の望みです) ほっそりした指を胸の前で組みあわせながら、リュミエールは眼をとじた。明日こそ言ってみよう。これからの週末を、ずっと水の館で過ごすのはいかがでしょうか、と。 宮殿から水の館に向かう道は、途中までが闇の館への道と重なっている。ちょうどその分岐点にあたる小さな森に差しかかった時、 水の守護聖は窓外に恋人の姿を見いだした。 「クラヴィス様……!」 馬車を止めさせると、リュミエールは急いで闇の守護聖のもとに走りよった。 「奇遇だな。ちょうど、お前のことを考えていたところだ」 「私もです」 驚いたように答える恋人を、どこか眩しそうに眺めながら、クラヴィスは尋ねてきた。 「散策だが……来るか?」 「……はい!」 水の守護聖は嬉しそうに答えると、先に帰るようにと御者に告げた。 お互いに話さなければならないことがあるのに、思いがけなく会えた嬉しさが先にたって、言葉がまったく出てこない。 黙って歩き続けたクラヴィスとリュミエールは、やがて森の奥で立ちどまり、見つめあった。 話しだすきっかけを探しているうちに、互いのまなざしに動悸が高まり、見惚れるように顔が近づき……いつしか唇を重ねていた。 衣を通してさえ分かる肌の熱さに、相手への恋情がにじみでている。背を抱きあう指の強さに、互いへの愛しさが伝わってくる。 それはたちまち一つに溶けあって、他の何も入れないほどの激しさで二人の心を満たしていった。 ようやく唇を離した頃には、彼らはもう、週末を過ごす場所などどこでも良くなっていた。 いやむしろ、愛しい人の私邸を訪れて、その人の香りに満ちた館で過ごすのが至福の喜びのように思えてきた。 (それにお疲れをとるのなら、静かな館でお休みになるのが一番かもしれませんし……) (考えてみれば明るい部屋の方が、表情がよく見えるという利点はあるな……) 睦まじそうに寄りそいながら、二人は明日こそ言おうと心に決めていた。これから週末は、ずっと相手の館で過ごすようにしたい、と。 |
Fin |
11/09のお題 "I": imitability (模倣できること) “あのようになれたら、と思います……” 恋人の言葉を思い出しながら、クラヴィスは海を眺めていた。 今頃はどうしているのだろう。昼の光の中で執務に勤しんでいるか、それとも星の光の下で竪琴でも奏でているのだろうか。 主星からはさほど離れていない惑星への出張ではあったが、好きな時にリュミエールに会う事ができないのだから、距離など何の慰めにもならない。 職務を行う場所が亜熱帯の沿岸地域なので、一日の殆どの間、視界に紺碧が入ってしまうのだが、 それが自分にとって幸運なのか不運なのか、クラヴィスには判断できなかった。 (お前がいたら、さぞ喜ぶだろうに……) 不機嫌に呟きながら、恋人の面影を水面に追い求める。 (“あのようになりたい“……か) 寄せ来る波はどこまでも穏やかだったが、留まる事を知らないその繰り返しはいつか、巨大な岩さえ貫いてしまうだろう。 美しく澄みながら決して無機的ではないその青は、無数の生命を裡に宿しながら、見る者を包み守るような寛さと力強さを感じさせる。 確かに、いま少し時を経たならば、リュミエールはこのような存在になるだろう。まだ脆い部分が残っているが、あの優しさと意志の強さは、 眼の前の光景に通じるものがある。自分などよりよほど経験も浅いというのに、あれは資質というものだろうか…… (……少なくとも、私には倣いようのないものだ) クラヴィスは、苦々しく呟いた。 寛大さも力強い生命力も、自分とは対極といって良いほどかけ離れたものばかりだ。 なのに──海に憧れる心を抱きながら、すぐ側に正反対の者がいるというのは、一体どのような気持ちがするものなのだろう。 全体、この自分はリュミエールの眼にどう映っているのだろうか。 理想とは程遠い者、そこに近づく見込みもなく、むしろどこまでも理想の逆を行きつつある者に対して、人はどのような感情が持てるものなのだろう。 (失望……) 自ら思いついた言葉の重さに、クラヴィスは慄然とした。 憧れの裏返しのようなその感情を持ちながら、リュミエールは尽くしてくれているのか。 優しさをもって接しているだけなのか、あるいは、命を守り育みたいという性質がそうさせているだけなのか。 この……海のように。 暗い気持ちで帰還したクラヴィスは、女王に出張の報告を済ませ、自らの執務室へと向かった。 だが長年の習慣だろうか、いつの間にか足が勝手に、水の執務室の前で止まってしまった。 小さくかぶりを振って、再び歩き出そうとすると、いきなり眼の前の扉が開く。 「あ……お帰りなさいませ!」 「リュミエール……!?」 突然現れた恋人の姿を、闇の守護聖は呆然と見下ろした。 「そこにいらっしゃるような気がして、思わず扉を開けたのですが……お顔を拝見できて嬉しいです。 宜しかったら、お茶でも召し上がって行かれませんか?」 とてもそのような気分にはなれず、クラヴィスは誘いを断ろうとした。だがその双眸は、奥の棚に置かれた絵にひきつけられた。 「あれは……」 思わず部屋に入ると、闇の守護聖はまだ未完成であるらしい絵に近づいていった。 暗黒が描かれていた。冷たく果てもなく、僅かな光すら差してはいない──だが虚空というわけでもなく、 どこかに生物がいるようにさえ思われる、不思議な暗黒だった。 紅茶でも入れにいったのだろう、別室に姿を消したリュミエールが戻るまで、クラヴィスはその絵を眺め続けた。 ティーセットを携えて戻ってきた水の守護聖は、恋人の見ているものに気付くと、嬉しそうに声をかけてきた。 「海の絵です。まだ途中ですが、お気に召しましたか?」 「海……これが?」 応接用のテーブルにカップを置くと、リュミエールは微笑んでうなずいた。 「海は深ければ深いほど、その底に闇を持つものです。私もいつかそのように深くなり、少しでもクラヴィス様のようになれたらと── クラヴィス様の、情け深く忍耐強い心に少しでも近づきたいと、そう願いながら描き始めました」 その表情は、いつか海への憧れを語った時と同じだった。 “あのようになれたら、と思います……” 「……どうなさいました?」 紅茶に手をつけようとしない恋人に、リュミエールは怪訝そうに問いかける。 闇の守護聖はいきなりその躯を抱き寄せると、青銀の髪に顔をうずめた。 「クラヴィス様……」 おずおずと抱き返してくる腕を温かく感じながら、クラヴィスは柔らかく波打つ海に口付けを繰り返していた。 |
Fin |
11/10のお題 "J": jockey (<競馬の>騎手、若者、操縦する、あやつるetc.) さらさらした金髪をなびかせながら、一人の少年が白馬に乗っている。早朝の空気を味わうような軽快な足取りで、緑豊かな聖地の道を進んでいる。 やがて木立を回りこむ角に差し掛かると、それまで見えなかった先のほうから、淡色の衣に身を包んだ青年が歩いてくるのが見えてきた。 「あ、リュミエール様、お早うございます」 「マルセル……お早うございます。その馬は?」 緑の守護聖は静かに馬を止めると、軽やかな動作で地面に降り立った。 「ジュリアス様から譲っていただいたソレイアードです。 ずっと練習していたんですが、やっと少しずつ遠くまで出かけられるようになったので、週末にはあちこち行ってみているんです」 「あなたに乗馬の趣味があったとは知りませんでしたが、とても楽しそうですね」 優しい眼差しで微笑む水の守護聖に、マルセルは少しだけ恥ずかしそうに答える。 「昔は違ったんです。馬の自由を奪って無理強いしていると思い込んでいて……でもジュリアス様とお話しするようになって、心を通わせて正しく乗れば、 馬の本来の力を引き出してあげられるって分かってからは、大好きになりました」 「厳しく見える中に本当の優しさがある……ジュリアス様らしい教えですね」 「あっ、そういえば」 手綱を握ったまま、少年は思い出したように空を見つめた。 「故郷にいたころ、一度だけ草競馬に連れて行かれた事があったんです。 まだ乗馬の事を誤解していた頃だったので嫌々見ていたんですが、馬たちがびっくりするほど生き生きと走っていて、 不思議な気持ちで帰ってきたのを覚えています」 その光景を思い浮かべているのか、マルセルの明菫色の瞳がすうっと遠くなる。 「あの馬たちも、自分の意志で走っていたんですよね。乗り手と心を一つにして、少しでも速く、速くって思いながら…… 僕もいつかソレイアードと、そんな風に走ってみたいな」 「私は馬の事は分かりませんが、あなたならきっと、どんな動物とでも心を通わせられるようになると思いますよ」 慈しむように少年を見つめながら、リュミエールは言った。 「ありがとうございます」 礼を言った少年は、ふと相手の携えている荷物に眼をとめた。 「ところでリュミエール様、ずいぶん大きなバスケットですね」 「ああ、これはクラヴィス様にお届けするために作ったキッシュやサラダ、それにマフィンとスコーンとジャムです。全部作りたてなのですよ」 「全部!?」 マルセルは、ぽかんとした表情で相手を見上げた。何しろ水の守護聖は、大人でも一抱えありそうなバスケットを、三個も手にしているのだ。 「いったい何時から作っていらっしゃったんですか」 「夜中にふと思いついて始めたので……そうですね、三時半くらいだったでしょうか。クラヴィス様は朝食をとられない事が多いのですが、 私の手作りだと召し上がって下さるので、今日は張り切ってしまいまいした」 「でも……せめて馬車を使われればいいのに」 幸せそうな微笑に眼がくらみそうだと思いながら、マルセルは尋ねた。 「朝の散歩は気持がいいですし、ゆっくり歩いていけば、ちょうど朝食にいい時間になると思いましたから ──ああ、そろそろ行かなければ。ではマルセル、ごきげんよう」 「はい、リュミエール様。お気をつけて」 三つのバスケットを抱えて去っていく水の守護聖を、少年は黙って見送った。 (夜中といっていい時間に起きて、あんなに沢山のお菓子や料理を作るなんて…… そうでなくても一年中、クラヴィス様の補佐やお世話に振り回されているというのに、どうしてあんなに楽しそうなんだろう) 考えながら遠乗りを再開したマルセルは、自分の下で快いリズムを刻むソレイアードを頼もしく見つめながら、彼なりの答えを思いついた。 (そうか、乗馬や草競馬と一緒なんだ。端から見ていて大変そうな事でも、本人はとても生き生きしているんだもの。 きっとクラヴィス様と心が通っているから、どんな風に見えても楽しいんだろうな) 思わぬ発見に、また一つ大人になったような気がする。嬉しくて、誰かに伝えたくてたまらなくなる。 (そうだ、ジュリアス様なら分かって下さるかもしれない。今度お会いしたら言ってみよう、 “クラヴィス様は、リュミエール様の素晴らしい乗り手なんですよ”って) 上り続ける太陽に照らされて、木々の緑がきらめいている。聖地は今日も美しく、そして平穏だった。 |
Fin |