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7周年記念企画
26の小さなクラリュミ (P-T)

***一日一回、英和辞典のページを前のほうからアルファベットごとに適当に開き、
左上に出ていた単語をお題としてクラリュミ掌編を書いてみようというチャレンジ企画です***


11/16のお題 "P": plate basket
(<英>食器かご)



 闇と水の守護聖たちは、水の館の庭で、休日を共に過ごしていた。  リュミエールはスケッチブックを広げて写生に勤しみ、クラヴィスはその側の木陰で寝息を立てている。 長い付き合いの恋人同士の、静かで幸福な時間が、そこに流れていた。


 青銀の髪の青年は、両側に手のついたラタンのバスケットを引き寄せた。 もともとは庭園の商人が食器籠として売っていたものだが、デザインが気に入った上、形も大きさも画材を入れるのにちょうどよかったので、 買い求めて以来ずっと愛用している品である。
 新たな色を使おうとバスケットを覗き込んだリュミエールは、底の方で何かがきらりと光るのに気付いた。 拾い上げてみると、それは小さなガラス玉だった。


(確かこれは……)
バスケットを買った時、一緒に来ていたメルとマルセルが店頭でこれを見つけ、何なのかと商人に尋ねていたのを覚えている。 確かあの後、商人は彼らに一つずつプレゼントし、ついでに自分にも分けてくれたのだった。
(どこかの惑星の玩具だと言っていましたっけ……)
水滴のように美しく透明なそれを、いつか描いてみようかと思いながら再びバスケットに入れると、水の守護聖は目当ての絵の具を探し出した。


 ややあって、また新たな色を取り出そうと振り向いたリュミエールは、そのまま眼を見張ってしまった。 バスケットはいつの間にか木陰に引き寄せられ、闇の守護聖の肘から半身を持たせかけられていたのである。
「クラヴィス様……!」
思わず呼びかけると、二呼吸ほど置いて答えがあった。
「何だ」
相手が目を覚ましていたのに安心した水の守護聖は、遠慮がちに言った。
「申し訳ありませんが、そのバスケットから絵の具を出させていただけませんか」
「……この高さが心地よい。放す気になれぬな」
無表情な声の底に、微かに面白がっているような響きがある。
 リュミエールは困惑した。これではまるで、意地悪をされているようだ。特に気を悪くさせるような事をした記憶はないし、 この様子からしてそう深刻なものでもなさそうだが、何を考えているかは思いもつかない。
「では、どうしたら良いのでしょうか」
「そうだな……」
暗紫色の瞳を僅かに開くと、闇の守護聖は横目で恋人を見た。
「温かく冷たく、柔らかく硬く、そして甘いもの……それをもらおうか」
 しばらく考えてから、リュミエールは自信なさげに答えた。
「アイスクリーム……ウィンナコーヒー……どちらも違いますね」
 クラヴィスは相変わらずバスケットにもたれ、楽しんでいるように言った。
「違う」
落胆しながらも水の守護聖はさらに考え、そして、いっそう自信なさげに答えた。
「以前ルヴァ様のところで、“冷製しるこ”というものをご馳走になった事があるのですが……」
「……違うな」
口元に笑みさえ浮かべながら否定され、リュミエールは肩を落とした。
「降参です」
 するとクラヴィスは、自分のほうに恋人を呼び寄せ、傍らに座らせた。
「眼を閉じよ」
大人しく従った水の守護聖は、突然訪れた感覚に、思わず身を震わせた。
 それは、紛れもない恋人の口付けだった。しかし、開かされた唇の間から滑り込んできたのは、いつもの温かく柔らかい愛撫ではなかった。
 いや、いつもの感覚もあるのだが──


(冷たく……硬い……)
クラヴィスとは異質のものが、絶え間なく動きながら口腔を巡っていく。覚えのない触感を刻まれて緊張した内壁は、 続いて覆い来る温かさと柔らかさを、普段の何倍もの敏感さで感じ取ってしまう。
 初めての刺激に翻弄されながら、しかしリュミエールは、次第にその冷たさが薄らいでいくのを感じていた。
(これ……は……まさか……)
彼の意識がそれをはっきりと描き出した時、闇の守護聖は静かに唇を離した。


 白い手の上で輝いているガラス玉を見て、水の守護聖は顔を赤らめた。
「やはり、これが……」
クラヴィスが無言で頷くと、リュミエールは困ったような微笑みで言葉を続ける。
「私がガラス玉を手に取った時、もう目覚めていらしたのですね。一言お声をかけて下されば、写生などすぐ止めましたのに……」
 それでも、リュミエールには分かっていた。好きな写生を止めさせるに忍びないという、これは闇の守護聖の優しさ──と、腰の重さ──だったのだと。 そして自分が気付くまで、待たされる代償をどう払わせようかと、この人は黙々と考えていたのだと。
「構わぬ……お陰で、面白い発見ができた」
そう答えると闇の守護聖は、恋人を強く引き寄せた。
 怒ればいいのか恐縮すればいいのか分からないまま、むしろ喜んでいる自分に戸惑いながら、リュミエールもクラヴィスの背に腕を回す。
 長い付き合いの恋人同士の、熱く濃厚な時間が、始まろうとしていた。
Fin

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11/17のお題 "Q": quaternion
(四つ一組、四人組、四枚重ねの小冊子、<数>四元数)



 クラヴィスはゆるく眼を閉じ、まるで眠っているかのように安らかな表情で、執務室のカウチに身を預けている。
 部屋の主が穏やかな休息を取れるようにと祈りながら、今日もリュミエールは竪琴を奏でていた。 演奏を聞いている時とそれ以外では、闇の守護聖の印象がまったく異なるのを、今さらのように感じながら。


 この人に出会ってからしばらくの間、リュミエールはずいぶん自分を不甲斐なく思っていたものだった。 放っておけない、お役に立ちたいと思いながら、人を拒むような相手の雰囲気に阻まれて、近づくことさえできなかったのだから。
 それが変化したのは、偶然の出来事がきっかけだった。 森でひとり竪琴を奏でていた時、たまたま通りかかったこの人が、最後まで演奏を聞いていってくれたのだ。
(私の竪琴に、興味を持って下さった……)
そこから驚くほど自然に関わりが生まれ、今では執務日の休憩時間に、時折演奏を聞かせるようになっている。
 だが、それで満足しているかと問われたら、自信を持って頷く事は出来ないだろう。 もう少し、あと何か一つでも共通の興味を持つものがあったなら。もう少し話ができて、あの端正な面が暗い表情から解放される時間が増えたなら。
 そんな事を考えていると、傍らの小卓に置かれたタロットカードが目に留まった。


 図書館で探し出した書物は、四枚重ねの小冊子を束ねた形の、ごく古いものだった。現在この宇宙でタロットといえば、 いくつかの星系で独自に発達してきたカード占いが統合されたものを指し、その中の種類や流派ごとに、多くの入門書が出版されている。 しかしその語源となった辺境惑星の、しかも貸出しできる最も古い時代の書籍を、リュミエールは選んだのだ。
 水の守護聖は私邸に戻ると、共に借り出してきた辞書を開きながら、さっそく本を読み始めた。
(今度は私がクラヴィス様のお好きなタロットに興味を持って、話題にできるようになれば……)
だが、見た事もない言語での読書は、どちらかというと解読に近い。闇の守護聖の愛用しているカードの種類が分からなかったため、 とりあえず最も起源に近いものを知ろうとしたのだが、毎晩遅くまで取り組んでもさっぱり内容がつかめなかった。


 連夜の夜更かしに欠伸を堪えながら、リュミエールは執務室まで本を持ち込み、職務の合間に解読を続けていた。
(これが読めたら、きっと……)
だが気付けば、いつの間か本が顔の下に来ていた。居眠りしていたのに気付き、反射的に起き上がると、 その拍子に本が鈍い音を立て、ばらばらの紙に分解されてしまった。
「あっ……!」
驚いて手でかき寄せたが、元通りに戻るはずもない。
 まだ開館時間だったので、水の守護聖は急いで図書館に本を持ち込むと、事情を説明して謝罪した。 幸い、かがり綴じの一部がはがれただけで、修繕も簡単なようだったが、経費が必要なら連絡をするように言った上でもう一度謝ってから、 ようやくリュミエールは執務室に戻ってきた。
 安心したせいか、先刻より強い眠気が襲ってくる。薄れゆく意識の中で、彼は自分が闇の守護聖と、 タロットについて楽しげに語り合っている幻を見ていた……


 本の破れる悪夢を見て、リュミエールは飛び起きた。冷汗をかいているのを感じながら肩で息をついていると、すぐそばから人の声がした。
「お前でも……執務中に寝るのだな」
「クラヴィス様!」
どれほど待っていたのか、闇の守護聖は影のように部屋の壁に沿って立ち、表情の無い瞳でこちらを見つめている。
「あの……すみません。だらしないところをお見せして」
言ってから、リュミエールはしまったと後悔した。これでは、よく執務中に寝ているクラヴィスを侮辱する事になってしまう。
「いえ、そうではなくて、その……」
狼狽する水の守護聖を怪訝そうに見つめると、闇の守護聖はまったく別の話を始めた。
「竪琴を弾いてくれぬか……闇の館で」
「……はい?」
とっさに理解できずに、リュミエールは聞き返した。
「庭にやってくる子鹿がいるのだが……二十日ほど前、どこかで馬車にでもはねられたか、怪我をしているのを見かけた。 その後、体は自力で治ったようだが、どうやら怯えが消えぬらしく、見て分かるほどやせ細ってしまったのだ。 お前の竪琴ならば、動物の心にも優しく響くのではないかと思うのだが」
 動揺と恐縮で蒼ざめていたリュミエールの顔が、今度は次第に紅潮していく。闇の守護聖の新たな優しさを知った喜び、 自分が信頼されていると気付いた驚き、そして大切な事を任された緊張を感じながら、彼は海のような色の瞳を輝かせていた。
(無理な勉強などせずに、私のままでいれば良かったと……そういう事でしょうか)
壊した本にもう一度心の中で謝ると、水の守護聖はまっすぐクラヴィスの面を見上げた。


 闇の守護聖の勘が当たったのか、子鹿は眼に見えて元気を取り戻していった。だが、すでに習慣となっていた訪問はその後も続き、 いつかクラヴィスとリュミエールは平日も休日も共にいるようになり……
 そのまま自然に、互いへの距離を縮めていったのだった。
Fin

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11/18のお題 "R": regulation
(規則、条例、正規の)



 昼食後、恒例の演奏をしようと闇の執務室を訪れたリュミエールは、朝に配られた書類が机の上にあるのを見つけた。

「読まれましたか、クラヴィス様」

「……ああ」

カウチに横たわりながら、闇の守護聖が短く答える。

「ロザリアとジュリアス様が新たな内規を作っているという事は知っておりましたが……ずいぶん具体的に書かれていたので驚いてしまいました」

水の守護聖は執務机まで行くと、床に竪琴を置き、書類を手に取った。

「例えば、“人の集まる所で可動式の機械を用いるときは安全に充分配慮し、操縦者から二メートル以上距離を開けない事” ……先ほどゼフェルがこの書類をつかみ、怒った顔で廊下を歩いているのを見かけましたが」

「……一騒動ありそうだな」

闇の守護聖の冷静な言葉に、リュミエールはため息をついた。

「おっしゃるとおりです。それからこの“執務室内に動物を持ち込む場合は、他の者の衣服に損傷を与えないよう充分配慮する事”。 この間、チュピがロザリアのドレスを汚してしまいましたからね」

その折の補佐官の様子を思い出して、水の守護聖は同情を禁じえなかったが、クラヴィスの表情はまったく変わらない。

「仕方あるまい。生き物である限り、、排泄は避けて通れぬ運命だ」

「そう……ですね。その次は、“ロッククライミングには、補佐官または首座の守護聖の許可を必要とする”、これは誰の眼から見ても、対象が明らかですね」

「その明らかな者と、先ほど前庭で会ったが……“これからはフリークライミングだけにしろって事だな。よーし、頑張るぞ!”と、 空に向かって拳を突き上げていたぞ」

水の守護聖は、ランディの元気な声を思い出して微笑んだ。

「あの子はいつも前向きですね。あとの条文は……“化粧禁止”、“みだりに女性に声を掛けない事”、“読書中でも来客があれば気付く事”」

「……“気付く事”は無理であろう」

「たしかに、条文としては少しどうかと思いますが……こうして改めて読むと、作成者のお二人がとてもよく私たちを見て下さっているのが分かりますね。 自らに厳しいあの方たちからすれば、確かに綱紀が緩んでいるように思われるかもしれません」

 耳が痛そうな表情であらぬ方を向いてしまったクラヴィスに、リュミエールはたしなめるような表情で言葉を続けた。

「今回は、はっきり私たちを指した項目はなかったようですが、これを他人事とせず、何事も気を引き締めてかかるようにしなければなりませんね── ところで、クラヴィス様」

水の守護聖は、書類を置いてカウチまでやってくると、声を低めて言い出した。

「実は一つだけ、私には意味の分からない項目があるのですが」

「“執務中に、過去の詮索は控える事”か……」

「はい」

闇の守護聖は半身を起こし、ゆっくりと頭を振った。

「私にも分からぬ……誰かがそのような詮索をしたという話も、されたという話も聞いた事がない」

「ええ。それだけに、私たちの知らない所で何かがあったのではと不安なのです」

思いつめたように言うリュミエールの腕に、クラヴィスの白い手が伸びる。

「お前が気にする事ではなかろう……少なくとも私は気にしていない。他人の過去を詮索する気もないし、私がされたところで、痛くも痒くもない」

 水の守護聖は、驚いたように相手を見返した。はっきりとは知らないが、この人には過去に辛い記憶があり、 出会った頃はそのために心を閉ざしていたと思っていたのに。

 相手の心を読んだように、切れの長い瞳が穏やかな微笑を浮かべる。

「……お前と想いを通じ合ってから、私には恐れるような過去など無くなった」

「クラヴィス様……」

腕を引かれて恋人の上に倒れこむと、導かれるままに顔を近づけ、唇を重ねる。

 休憩とはいえ執務時間内だからという歯止めが、下から口腔に入り込んでくる陶酔に、儚く溶かされ消えていく。 少しずつ位置を変えていく口付けに白い首筋を反らし始めた頃には、もうリュミエールの中に時間の感覚はなくなっていた。




 作成者たちの期待にもかかわらず、新しい内規は一向に守られる様子がなかった。 あまりにはっきりと無視されたので、間もなく作成者の記憶からさえ薄れていき、結局は、 最初の書類に誤植があった事さえ発表されないままに終わってしまった。

 もし後世、補佐官か守護聖の中に好事家が現れたら、この内規の草稿を見つける事があるかもしれない。 その一つの項目には、こう書かれているはずだ──“執務中に、過度の接触は控える事”。
Fin

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11/19のお題 "S": side street
(横町)



 辺境としては最も繁栄した惑星の一つに、闇と水の守護聖たちは出張していた。 出張の主な目的である式典の会場は都心の中心にあったが、基本的に聖地の者は秘密裏に移動すると決められているため、 貴賓館から会場までは、一般車に偽装した警備車両に囲まれながら車で往復する事になった。


 式典も滞りなく終わり、二人は行きと同じ車で帰途についた。立ち並ぶビルを暮れ始めた太陽が彩り、 聖地とは全く趣の異なる風景を浮かび上がらせている。車窓から珍しそうに外を眺めるリュミエールの横顔を、クラヴィスは黙って見つめていた。
 この出張は辛いものになるだろう、と彼は思っていた。側にいるだけで苦しくなるほどの自制を、より強く求められるのだから。
 それとも、罰なのだろうか。幾度傷つけても微笑を絶やさず、常に力となり助けてきてくれたこの優しい青年に、 感謝の言葉さえ口にできないまま、それを遥かに超えた気持ちを抱いてしまった事への。 その表情も声も思いも、全て自分だけのものにしたいという、狂おしい欲望への。


 ある交差点で停車すると、夕景をぬって、どこかから物悲しい曲が聞こえてきた。よく年少の守護聖らが聞いている電気楽器の曲に似ていたが、 それだけではない、何か独特の響きが耳に残る音楽だった。
(あれは……?)
クラヴィスの脳裏に、ざらりとした感触が蘇った。聞きほれるというには痛みの強すぎるその感覚を追うべきかどうか迷っていると、 すぐ隣で尋ねる声が聞こえてきた。
「どこか不思議な、心にしみる調べですね。どのような方が奏でられているのですか?」
「はっ。表通りから脇に入った道などでよく演奏している、いわゆるストリートミュージシャンだと思われます。 お気に召したのでしたら、さっそく御前で演奏させるよう手配いたしましょう」
水の守護聖から依頼を受けたと思い込んだのだろう、護衛官は返事も聞かず、本部と連絡を取り始めた。
 困ったように見あげてくるリュミエールに、クラヴィスはただ黙って頷く。
 たとえ気の進まぬ音楽の鑑賞であろうと、彼のなす事を否定などできるはずがない。それほど捉えられているのだ、この二つの深い海に。


 守護聖たちが夕食をすませた頃、護衛兵に連れられて、横町の演奏者が貴賓館に姿を現した。 まだ年若いその男は、この辺りの惑星を行き来しながら音楽を聞かせて生活しているという事だった。
 守護聖担当の高官が指図すると、彼は演奏を始めた。楽器自体はいわゆる若者の好む電気楽器だったが、 高く長い単音と低い和音の組み合わせが特徴的なその曲には、心の底を吹き抜けていくような独特の哀調がある。
 聞いているうちに、闇の守護聖はまたしても、胸の奥を掻かれるような痛みを感じた。リュミエールがどうしてこのような音を聞きたがるのか、 とても理解できない。彼が好んで奏でている曲とは全く異なるというのに。
 そう、あの調和のとれた美しい世界とは似ても似つかない、荒涼とした風景を思わせる音ではないか。 吹きすさぶ風、空を走る灰色の雲、明日を思う事すらかなわぬ貧しい者たちが、その日一日をしのぐために、痛みに耐えながらさすらっている……


 演奏が終わると、リュミエールは嬉しそうに微笑んだ。
「わざわざ来て下さって、ありがとうございました。きれいな曲ですね」
若者は緊張した声で答えた。自分の曲の音階やリズムは、亡き祖母が口ずさんでいたいくつもの歌が元になっていると。 祖母はここから離れた惑星の、とある民族の末裔だったが、自分に流れるその民の血が、この音楽を伝えさせているのだろうと。
 聞くともなしにその会話を聞いていたクラヴィスは、若者の口にした惑星の名に、動悸が高まるのを感じた。
 外見にこそ記憶を呼び覚ますような特徴はなかったが、若者が奏でたのは確かに、語るかわりに、叫ぶかわりに、慟哭するかわりに、 あの群れの人々が歌っていた歌だった。
 忘れていたはずの土地。故郷を持たぬ流浪民の群れ。 今は散り散りとなり、歴史にさえほとんど残らないその民の血を引く者が、遥か昔の歌の響きを今に伝えていたのだ。


 若者と高官たちが退出し、守護聖たちだけが残されると、リュミエールは心配そうにクラヴィスの側に寄ってきた。
「あの……先ほどの音楽は、お気に召さなかったでしょうか。ご気分がすぐれないように見えますが」
「別に。嫌いではない」
気遣うように見あげてくる瞳を見ないようにしながら、闇の守護聖は短く答える。
 するとリュミエールは、安堵したように言い出した。
「良かった……それをうかがって嬉しいです。私には、とても魅力的な音楽に聞こえました」
「ほう……」
ただ珍しいというだけでなく、そこまで気に入っていたのかと、クラヴィスは少し驚いて相手に眼を向けた。
 水の守護聖は仄かに紅潮しながら、まっすぐな眼差しで見返してくる。
「はい……心が裂けそうなほどの悲しみと、それを受け入れて生きる強さ、そして私などにはとても届かぬ高みの、 白く冴えた月のような美しさを感じました」
 クラヴィスは動揺した。蔑まれ迫害され続けてきた流浪民たちの事を、そのように思ってくれる者が現れるとは考えてもみなかったのだ。 しかもそれが、自分の求めて止まぬこの青年であったとは。
「ありがとう……リュミエール」
意識する前に、言葉が流れ出していた。あれほど言わなければと思いながら、気後れに負けて口に出来なかった言葉が。
「えっ……」
驚いている水の守護聖に背を向けて、クラヴィスは自分の寝室に入っていった。
 生まれに劣等感を抱いていたわけでもなければ、人の全てがそれで決まるとも思わない。 だが、誰にも話していない自分の出身をあのように認められて、クラヴィスは初めて息をつく事ができたような気がした。


 そして──彼は知らなかったが、同じ頃リュミエールは、思いがけない言葉に驚きながらも、 自分の中に潜んでいた想いが泉のように心に溢れてくるのを感じていたのだった。
Fin

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11/20のお題 "T": thingy
(物の、実際の、現実の)



 長い年月を共に過ごす守護聖たちは、馴れ合いから互いに無遠慮な態度を取るようになり、 そのために小さな諍いを起こしてしまう事がある──と憂いた補佐官と、 『感謝の気持ちを表すのって大切だと思うの。そういうプレゼントって、やっぱり形のある物の方が、 後から見て思い出せて嬉しいわよね』──という女王の意見がまとまって、ある日、異例の女王命令が出された。
 曰く、“守護聖たちは、日頃世話になっている他の守護聖に、ちゃんと物の形をとったプレゼントを贈ること”。


 ある者は楽しそうに、またある者は面倒くさそうに、それでも知恵を絞って他の守護聖たちに贈り物を用意し始めた。 その内容は様々だったが、それぞれが考え抜いた贈り物を考え抜いた相手に──結果的に他の八人全員に──贈り終えた時には、 守護聖同士の人間関係は着実に良くなっていたようだった。
 ところが一人だけ、まだひとつの贈り物も贈っていない者がいた。


「クラヴィス様、失礼いたします」
ある金の曜日、闇の執務室を訪れた青銀の髪の青年は、口ごもりながら言い出した。
「あの、もし私の間違いでしたら申し訳ありませんが……クラヴィス様は、陛下の命じられた贈り物を、 まだなさっていないのではありませんか」
 部屋の主は渋い表情で、視線も合わさずに頷いた。いかに恋人同士の間柄とはいえ、痛いところを突かれるのは嫌なものらしい。
「差し出がましいとは思いますが、あまり難しくお考えにならなければ解決できるのではないでしょうか」
「……どういう事だ」
「たとえば、感謝の気持ちを書いたカードを送るとか……とにかく、相手に確実に思いの届く物が一番だと思いますが」
 闇の守護聖は、安堵の息を漏らした。気は進まないが、カードくらいなら何とかできるかもしれない。それにしても──
「お前にはいつも頼ってばかりだな……他の者とは分けて、何か特別な物を贈りたいと思うのだが」
「そのお気持ちだけで十分です」
「そうはいかぬ。ほしい物はないのか……私が与えられる限りで」
いつになく真剣な口調に、水の守護聖はしばし考え込み、そして答えた。
「それでは明後日一日だけ、クラヴィス様を私に下さい」
「……なに?」
「形あるものとして、クラヴィス様をいただきたいのです。日付が変わったらお返ししますが、 その後もクラヴィス様を拝見するたびに思い出せるでしょうから、陛下のご意志にも沿うと思います」
何と大胆な──と、クラヴィスは思った。もし自分が一日中リュミエールを好きにできるとしたら、 いったいどれだけの事をしてしまうだろう。一日で足りるかどうかはともかく、それは危険なほど胸躍る状況だった。
 いや、しかしこの場合は、リュミエールが自分を所有するのだから、あまり大変な事にはならないだろう。恐らくは。
「……わかった」
「ありがとうございます。それでは日の曜日を楽しみにしております」
優しい面に浮かぶ嬉しそうな微笑は、闇の部屋さえ輝かせるほど美しい。
 それを見られただけで良しとしよう、と闇の守護聖は思った。


 だが翌日は一日中、クラヴィスの頭はこの贈り物の事でいっぱいになっていた。 それほど大した事はしないだろうと思うが、しかし何と言っても、リュミエールがあのような事を言い出したのは初めてである。
 もし彼がこの機会を利用して、日頃表に出していない欲求を満たそうとしていたら。 あるいは、普段隠している性癖を露にしようとしていたら。
(まさか、あのような事まではしないだろうが、あれくらいまでなら何とか付き合ってやれるかもしれぬ。 だが、もしそれを超えて、あれやあんな事まで仕掛けてきたら……)
 予想は危険な方にばかり広がって、闇の守護聖の額を冷や汗で濡らしていく。
(それは駄目だ……と思うが、いや、やはり駄目だ……たぶん)
想像しているのか悪夢を見ているのかもわからないまま、クラヴィスは少しも休めずに一夜を明かした。


 日の曜日、夜明けと共に水の守護聖が訪問してきた。
「さあ起きてください、クラヴィス様。約束ですよ」
にこやかな笑顔で、しかし容赦なく毛布をはがしていく。
「洗面がすみましたら、まず朝日を浴びて散策です。戻ってきたら朝食、それから皆様への感謝のカードを書いて下さいね」
「……なっ」
片手でクラヴィスの半身を起こしながら、リュミエールはさらに続ける。
「昼食をとられたらまず、地の館にお茶をよばれに行きます。オリヴィエとゼフェル、それにマルセルも来てくれる予定ですから、 そこでカードをお渡し下さるといいと思います。続いて夕食はジュリアス様のお屋敷で、 オスカーとランディと一緒にご馳走になる事になっていますから、残りのカードはこの時にお渡しできますね。 ああ、今日一日でどれほど、クラヴィス様と皆様との親密度が上がるかと思うと、もう私は嬉しくて……」
 水の守護聖の、見掛けに似合わず力強い腕に支えられて、されるがままに身支度を整えられながら、 クラヴィスは予想とはまったく違う悪夢に落ちていくのを感じていた。
Fin

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